1. 本書の意義
日本を取り巻く安全保障環境が戦後最も複雑で厳しさを増していると言われる中、政府の安全保障政策の改革を求める声はインテリジェンス政策にも向けられている。
自民党と日本維新の会の連立合意書には、国家安全保障局と「同格」となる「国家情報局」を設立すること、また、対外情報機関の設置や情報要員を養成する専門機関の設置が提言されている。国家の安全保障は、外交力・防衛力・経済力・技術力・情報力といった関係する国力の総合力から成るといわれ、国際スタンダードとしては、いわゆる“DIME”(外交[Diplomacy]、情報[Information]、軍事[Military]、経済[Economy]の頭文字)として構成される。
日本においては、安全保障を支える「国力」として最も未発達である分野が「情報」、すなわちインテリジェンス(安全保障政策に必要な情報を関係部局から収集し、総合的な分析(オール・ソース・アナラシス)を通じて政策形成を支える営み)であるというのが実務家や専門家の一般的な問題意識とされる。
本書は、日本政府が戦前戦後において有した「中央(内閣)の情報機関」について、任務を遂行する上での問題意識や関係省庁との関係、民間との連携の在り方に光を当てることで、内閣のインテリジェンスの事績をたどる。安全保障・インテリジェンスに比較的通じた者でも、日本のインテリジェンスについては次のような観方が常識的であり、こと内閣のインテリジェンスがリーダーシップを発揮したとの認識はほとんど見られない。
- 日本のインテリジェンスは、戦前も戦後も省庁の縦割り意識(セクショナリズム)によって支配されている。
- 戦前は軍部が政府内で指導的な地位を占め、客観的な情報よりも、政策目的(結論)ありきで政策が形成されていった。
- 戦後は、警察庁と公安調査庁が国内において共産主義の浸透を防ぐため、ヒューミント(対人情報収集)を通じて関連人物を取り締まり、防衛庁/防衛省はシギントを通じてソ連や中国の軍事活動を補足、外務省は在外公館を通じて対外情報の収集において優位に立ち、外交政策形成において主導権を握った。
いずれの指摘も、関係省庁がそれぞれの政策目的をもって国内外でインテリジェンス政策を実行し、内閣がインテリジェンス・リーダーシップ注)を発揮する余地はなかったことを示唆している。このような認識には、近代日本のインテリジェンス史において「中央=内閣」という視点がないという点は共通しているようだが、本書は、そのような常識に正面から切り込む。
著者は、1930年代に誕生した近代日本初の中央(内閣)情報機構から戦後の沖縄返還後の1970年代までの歴史を概観し、内閣が有した情報機関がどのような問題意識で発足し、日本の国際的立場や各省間の権力関係の中で存在意義を見出してきたか、内閣情報機構の運営を担った実務家の活動に光を当てることで、「内閣のインテリジェンス」の事績と特質を明らかにしようとする。
日本のインテリジェンス研究は、軍部や各省が有した情報機関とそれ相互の関係に注目することが中心であったと思われるが、本書は「内閣」の情報機関の変遷を丁寧にたどっている点において価値がある。この視点は、自民・維新による日本のインテリジェンス改革に関する議論を地に足のついたものとするために重要な洞察を提供するだろう。
改革の焦点が「内閣の情報機構」の強化に向けられている以上、日本の内閣情報機構が、歴史的局面や政府内の力学の中でどのように立ち振る舞ってきたかを理解することは、今日の内閣の情報機構(内閣情報調査室)の立ち位置を理解することでもあり、将来の内閣のインテリジェンスは、その延長に描かれるものであるからだ。
注)ここでいう、インテリジェンス・リーダーシップは評者の造語で、政府として各省庁が収集した情報を戦略的・総合的に分析し、情報収集の方針を示すとともに関係省庁の政策立案に生かすサイクル(インテリジェンス・サイクル)を回すことに指導性を発揮することを意味する。
2. 戦前の内閣情報機構
著者によれば、日本政府が、各省ではなく内閣に情報機構を設置する必要があると認識し始めたのは、第一次世界大戦が契機であったという。
日本は連合国の一員として戦勝国に位置したが、パリ講和会議において、ドイツから継承した中国・山東省の権益を巡る中国代表団からの批判に対応するのに苦慮した。第一次世界大戦を契機に、戦争は「総力戦・国民戦」の色彩を強め、職業軍人や政治家、外交官が主導する戦争は過去のものとなり、国際紛争や外交の遂行・処理の在り方をめぐり、実態として国民の声ぬきで進めることが困難な政治環境が、日本を含め先進主要国に現出した。
ウィルソン米大統領が主張した通り、国民の意思を反映した外交こそが公正であるという意識が、通信手段の発展や日本を含む主要国における「大衆」の登場を受けて世界的に広がっていった。
中国の対日宣伝戦は、そのような時代背景を巧みに用いて行われた外交政策であったが、当時の日本政府には、外務省や陸軍による対外政策を統括し、その国際理解を促進するための宣伝政策を立案実施する機構はなく、そもそも、その必要性が政府全体で共有されていなかった。
パリ講和会議を踏まえ、外務省や陸軍は国内外の宣伝政策を専業とする部局の設立を急ぎ、その一連の流れが内閣としての情報機構の創立へとつながっていくのだが、内閣が擁した情報機関は、各省・軍部のセクショナリズムの壁を意識しながらミッション遂行を余儀なくされる。セクショナリズムを意識しながら内閣機構として情報政策を統括する意味では、戦後の内閣情報機構の原型は、この時すでに生まれていた。
興味深いのは、内閣の情報機構には戦前から戦後(1970年代)までの継続性、つまり水脈が存続していることだ。それが、政策機能としての「宣伝」である。
戦前においては、政府の外交政策や軍事作戦に対する国際的な正当性の獲得、及び国内での理解と支持の獲得が内閣情報機構の目的であった。戦後は、共産主義の国内浸透による体制転覆の防止や治安維持、そして共産中国の物理的(軍事)・思想的脅威への対抗が内閣情報機構の目的とされた。
戦前も戦後も、内閣情報機構は、関係省庁との連絡調整(情報共有)を通じて、政府として一体化した国内外への宣伝政策の立案実施を目的としていた。メディアや有識者との連携を通じて世論形成を図る点は戦後の内閣情報調査室の主戦場となるが、戦前の内閣情報機構も類似の活動を行っている。著者が指摘する「日本型インテリジェンス」の系譜として、官民連携による宣伝政策を通じた世論形成という水脈が流れていると指摘できるだろう。
日本最初の内閣の情報機構は、1936年7月に設立された「内閣情報委員会」である。同委員会は、今日の内閣の下の情報機関である内閣情報調査室と同様に、関係省庁から所掌業務を移管させることで成立するのではなく、内外の政策に関して政府統一の宣伝政策を行う観点から関係省庁との連絡調整に係る権限を付与されたに過ぎない。ただ、政府として内外への宣伝政策を一元的に企画立案する権限を(各省のセクショナリズムの中で)内閣の機関が有したところに、この委員会の新規性があった。
その背景には、上述のとおり、外交や国際問題が政治家や外交官の専任業務ではなく、広く国民生活の利害に関わるとの認識が広がった国内環境が前提としてある。近代日本の内閣インテリジェンスは、外交の民主化とともに始動したといえる。
内閣情報委員会は、日中戦争が継続する中、「内閣情報部」、そして「情報局」と、内外の宣言政策を統率する中央機関を目指して試行錯誤の中で実務を遂行していく。法制度上の具体的な変遷は本書に譲るが、内閣情報委員会から情報局までの戦前の内閣情報機構は、軍部や外務省との対外宣伝政策に係る連絡調整や、関係省庁間の戦略環境の認識統一に主眼が置かれた。
総力戦時代には、物理的国力の増進にとどまらず、国策遂行のために国民の理解と支持を得ることが重要であり、そのために対内宣伝が必要とされた。戦前において、内閣情報機構の関係者は「思想戦」と称していたが、戦後の冷戦環境において日本世論が共産主義に飲み込まれないようにするための世論工作は、内調の中では「心理戦」と称された。こうしてみると、戦前・戦後の内閣情報機構の主任務に、世論工作(管理)が優先業務として据えられたことがよくわかる。
戦前に始まった中国の宣伝戦への対抗を主任務とする内閣情報機構は、戦後、国内における共産主義浸透の防波堤としての役割を帯びる。いずれにせよ、戦前戦後を通じて、少なくとも70年頃までは、宣伝政策が内閣情報機構の主任務であったと指摘できよう。言い換えれば、内閣情報機構としては、相手を欺くことで政策目的を達成する“謀略活動”は主任務ではなく、あえて言えば、工作対象は、国内の世論であったことだ。
ここで誤解を避けたいことは、外交や戦争に関する戦略環境が、そのような政策を必要としたことである。外交の民主化が、第一次世界大戦がもたらした時代的画期であったとすると、戦前の内閣情報機構は、そのような時代環境に必要とされる情報機関となることを目指したと指摘でき、戦後においても、共産主義という思想戦の防波堤として、自らの主任務を規定した。時代が求める問題意識に敏感という意味でも、戦前・戦後の内閣情報機構は、規模や権限が小さいからか、省庁や軍部とは異なる鋭敏さを有していたといえよう。
3. 戦後の内閣情報機構
戦後、情報局は「内閣総理大臣官房調査室」として生まれ変わり、「内閣調査室」、そして現在の「内閣情報調査室」へと続いている(以下、便宜的に今日の内閣情報調査室の略称である「内調」と称する)。
本書の史述は沖縄返還という1970年代までとなっているが、戦後の内閣情報機構は、特にソ連や中国による共産主義が日本国内に浸透することを防ぐ防波堤になることを一義とし、具体的には日米安保体制の定着と保持を主要な目的とした。
戦前の「内閣情報委員会」や「情報局」が行おうとした、日本政府の対外政策に関する国際的理解の獲得という側面は、敗戦国として対外政策が制約された中で満足に行うことはできなかったが、むしろ戦後の内閣情報機関は、国内こそが主戦場であり、いかに戦後日本が思想戦において共産主義に飲み込まれないようにするかを目的とした。
内調は、日本国内の現実主義的思想の学者やシンクタンクに対して調査研究を委託し、国内の思想状況や中共の国内影響力分析、国際環境に係る評価レポートなどを作成させ、総理大臣をはじめとする政権の中枢に提出することで政権の意思決定に影響を与えた。
同時に、現実主義的立場の学者のみならず、朝日新聞のような政府の安保政策に否定的なメディアとも意見交換のネットワークを構築することで、内調は内閣の重要政策を推進するために必要な世論の基盤づくりを主な業務とした。
その真骨頂は、中国の核実験を受けた日本の安全保障(核政策)に関する調書である。内調は、沖縄返還交渉を佐藤総理との緊密な連携のもとで進めた若泉敬を含む有識者グループに、中国の核保有を受けた日本の核・安全保障政策に関する政策提言を取りまとめるよう依頼した。
この調書の骨子は、日本自身が核兵器を保有することは得策ではないが、核兵器を保有できる産業力を有し続けることが長期的に中国との戦略競争において優位であるために必要であると説いたものである。
本調書は、佐藤総理や政権中枢に配布され、佐藤総理のリーダーシップのもと、米国による拡大抑止として結実した。内調が仕組んだ世論形成とは、敗戦国という対外政策が一定の制約の下にある中で、現実主義の立場の有識者を“民間資源”として活用し、内閣との制度的近接性と関係省庁からの情報提供を生かして、内閣に必要なインテリジェンス(政策示唆)を柔軟な視点で提供していた点に見出されるだろう。
4. 令和の内閣インテリジェンスに向けて
戦後から1970年代までの内調が果たした役割は、政府の重要政策を遂行する上で必要な世論基盤を形成するために、有識者やメディアと水面下で連携することであった。この役割は、敗戦国としての国際的立場や冷戦という国際環境と密接に関わっている。このモデルが、今後の「日本型インテリジェンス」のひな型として普遍性を持つとは限らない。
国際的に見て、今日の日本は内外をして敗戦国としてのイメージや国力像に位置しておらず、冷戦というイデオロギー対立で見ることも妥当性を欠く。中国の軍事・経済的台頭と国際秩序の力や威圧による変更の試みを最大の挑戦とする、戦後最も複雑で難しい国際安全保障環境が、日本の内閣インテリジェンスの在り方を左右する最大要因となっている。
自民党や維新が確立しようとする政府インテリジェンスも、戦後最も複雑で厳しい安全保障環境において、日本の安全保障政策の立案調整を担う内閣のインテリジェンス・リーダーシップを構築することに主眼がある。
これは、1930年代から1970年代までの伝統的な日本型インテリジェンスの水脈とは、大きな思想的・政策的飛躍があることは事実である。かの時代と今日を比べると、日本の国際的な立ち位置や戦略課題は大きく異なる。しかしながら、著者も指摘する通り、内調が体現してきた世論への強い問題意識(輿論形成への意思)は、民主国家における情報機関のあり方として、普遍的な論点を与えるだろう。反戦または非戦的な感情を世論の不可欠な要素とする現代日本における情報機構の発展を考える上で、内閣情報機構、とりわけ戦後の内調の事績からは歴史的な示唆が抽出できる。
戦後の内閣情報委員会から戦後の内閣情報調査室に至る内閣のインテリジェンス機構の道程は、CIAやモサドのように対外謀略を企図する意味での積極性はない。しかし、第一次世界大戦や日中戦争、敗戦、冷戦、共産中国という大きな歴史的契機や局面に際して、内閣の情報機構は民主国家における情報機関としてのあり方/責任を必死に模索してきた。つまり、歴史に耐えられる情報機関を設立維持しようとしてきた営為の蓄積がある。
日本が民主国家に相応しいインテリジェンス・システムを有するためには、戦前・戦後の内閣インテリジェンスのあり方を振り返ることが、地に足の着いた制度改革の土台となるだろう。本書は、内閣情報機構の内外の格闘史を解説した著作として、内閣インテリジェンスが発展するための基本的な論点を示唆している。
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編集部より:この記事はYukiguni氏のブログ「On Statecraft」2026年1月14日のエントリーより転載させていただきました。