総選挙の街頭演説をいくつか聞いて、私は奇妙な感覚を覚えた。
誰も間違ったことは言っていない。
だが、誰も本当のことを言っていない。
物価、子育て、減税、防衛、分配。
どの主張も一理ある。
しかし、どれも表面で止まっている。
まるで人体の外形だけを撫で回し、骨格も臓器も神経も見ずに「この身体は健康です」と言っているような軽さが、どうにも気になった。
そこで私は、思わずZoomを申し込みたくなった。
相手は、世界的な解剖学者であり、『馬鹿の壁』の著者としても知られる養老孟司先生——
……ではなく、その養老先生自身が繰り返し言及してきた人物、
レオナルド・ダ・ヴィンチである。
解剖学者であり、技術者であり、芸術家。
今の日本を解剖するなら、この人物しかいないのではないか。
そう思った瞬間、なぜかZoomはつながった。
事情を説明すると、ダ・ヴィンチはしばらく黙ってから、こう言った。
「君の国は病気ではない。ただ、自分の身体を部分ごとにしか見ていないのだ」
なるほど、と思った。日本の政治は、
税は税
福祉は福祉
規制は規制
安全は安全
すべてが切り分けられている。切り分けた瞬間、それぞれは合理になる。
しかし、切り分けたまま、組み直さない。
ダ・ヴィンチは言う。
「解剖とは、本来、分けるためではない。つながりを知るために切るのだ」
日本は切った。だが、つなげていない。
私は、日本の規制について尋ねた。
法律ではなく命令で人が縛られること
国会を通さずに社会が変わること
それでも「合理的」と説明されること
ダ・ヴィンチは、笑みを浮かべながらこう言った。
「それは局所麻酔だ。痛みを感じないから、切られていることに気づかない」
日本の合理は、問題を解決するための道具ではない。
違和感を感じさせないための麻酔だ。
「これは合理的です」
「前例があります」
「国民のためです」
そう言われると、誰も痛みを訴えなくなる。
だが、麻酔が効いているだけで、身体は確実に切られている。
ここで私は、養老孟司の言う「馬鹿の壁」を思い出した。
ダ・ヴィンチは即座に頷いた。
「壁は、人の頭の中にはない。構造の中にある」
日本では、
それぞれの制度は合理
それぞれの説明も合理
それぞれの担当者も真面目
だが、制度同士が矛盾しても、憲法と衝突しても、誰も全体を見ない。
なぜなら、見る役割そのものが存在しないからだ。
私は、なぜ選挙の舌戦がこれほど表面的に聞こえるのかを尋ねた。
答えは簡単だった。
「候補者も、有権者も、同じ壁の内側にいるからだ」
そして、最終盤で、候補者はこう言う。
「給付で支える」
「減税で支える」
「賃上げで解決する」
どれも間違っていない。
だが、誰一人として、こうは言わない。
——その給付は、どの制度の血管を通って届くのか。
——減税で空いた穴を、どこがどう埋めるのか。
——賃上げできない企業が、なぜ生き残っているのか。
それを語れば、税、社会保険、規制、補助金、金融、雇用が、一本の神経でつながっている事実が露わになる。
だから誰も、そこまで踏み込まない。
選挙で語られているのは「対症療法」だけだ。
国の身体そのものについての診断は、最初から議題に上がっていない。
Zoomが切れる直前、ダ・ヴィンチは念を押すようにこう言った。
「人の身体で最も危険なのは、壊れた臓器ではない。
どこが壊れているのか、誰も分からなくなった状態だ」
日本は、合理で覆われ、痛みを感じず、構造を見ないまま動いてきた。
正確に言えば、動いている「つもり」で来た。
すべては合理だった。
だから問題はなかった。
——少なくとも、説明の上では。
だが、解剖なき合理は、
いつの間にか「身体そのもの」を議論の外に追い出す。
気がついたときには、
誰も嘘をついていないのに、
誰も国の全体像を語れない。
それは病気ではない。
自己認識を失った身体だ。
そして、その状態こそが、
合理の国・日本の、いまの姿なのである。
北村隆司 (ニューヨーク在住)