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私は、感情的になりがちな外国人問題を、政治課題として俎上に載せたという点で、参政党の問題提起は評価されるべきだと思う。
日本の政党の多くが議論を避けてきたテーマであり、現場ではすでに自治体、医療、教育、治安の各領域で、外国人の受け入れと摩擦が混在している。そうした状況を踏まえれば、議論を始めたこと自体は歓迎したい。
しかし、問題は「何を言ったか」ではなく、「どの思想と制度設計で語っているか」である。参政党の主張を丁寧に追っていくと、個々の政策以前に、思想・制度・運用の三層で、深刻な自己矛盾が横たわっていることに気づく。
まず、参政党の基本思想である。
ナチスは、国民(市民)の資格を「ドイツの血」で定義し、ユダヤ人を市民から排除すると綱領に明記した。
国民を法的地位ではなく、先天的属性で定義したのである。
一方、参政党の憲法構想案は、国民要件として「父または母が日本人」「日本語を母国語とすること」「日本を大切にする心」などを掲げている。ここで問題なのは、善悪や好悪ではない。国民という法的資格が、血統・言語・信条といった属性で切り分けられる構造そのものだ。
とりわけ「心」は測定不能であり、定義不能であり、「母国語」の意味も不明確である。
これらを国民要件に置いた瞬間、政治は個々人の内心に踏み込む正当性を手にする。誰がそれを判定し、誰が異議を申し立て、どこまでが許されるのか。その線は必ず揺れる。
国民を「法」ではなく「属性」で定義する点で、ナチスと参政党は不気味なほど類似している。
「国民の定義を先に固定し、そこから外れる者をリスクとして扱う」という参政党の思考の型は、ナチスそのものである。
これは抽象論ではない。1920年に公表されたナチスの25か条綱領、その第1〜5条が示した核心は、①国民共同体の厳格な定義、②共同体外部の制度的排除、③国家再生を掲げながら財政・制度の具体像を欠く点にあった。参政党の言説は、この三点と構造的に酷似している。
次に、参政党が模範として言及するシンガポールである。
同国は人口の約3割強を外国人が占め、英語・中国語・マレー語・タミル語の4言語を公用語とし、外国人に門戸を開く国家として設計されている。
同時に、ID管理、就労・納税・滞在の連続的なデジタルモニタリング、国家利益を損なう者の迅速な排除を、制度として実装している。
そして、その国内統治は強権的で、1965年の独立以来、与党・人民行動党(PAP)による一党支配が続いており、今なお鞭打ち刑を含む厳罰主義や人権制約など、全体主義に近い内政政策を維持している。
参政党は、このシンガポールを「範」としながら、排除の基準だけを称揚し、その前提となる門戸開放、監視・管理、人権制約にはほとんど触れない。
一方で、マイナンバー制度やデジタルIDの拡張には強い警戒感を示し、連続的モニタリングを否定する。これは制度論として成立しない。
財政についても同様である。参政党の政策集を読むと、外国人対策、教育、食料安全保障、医療など、歳出項目は実に豪華だ。だが、その実行に必要な財源、すなわち、どのようにして必要な財を生み、誰がどの程度負担するのか、既存のどの歳出を削るのかについては、ほとんど語られていない。
これは収入欄のない支出簿にすぎず、国家運営どころか、子どもの小遣い帳レベルにすぎない。
さらに看過できないのは、安全保障観の時代錯誤だ。
AI時代の夜明けを迎え、最も脆弱なのは軍事そのものではなく、サイバー、金融、医療、エネルギー、情報インフラである。しかし参政党の議論は、熱い戦争を語る一方で、冷たい戦争――サイバー戦、認知戦、制度破壊――への備えが驚くほど薄い。デジタルを否定しながら、現代国家の脆弱性をどう守るのか。その答えは示されていない。
神谷党首が国会質問で挙げる欧州諸国の例も同様だ。
彼が国会質問でよく引用するオランダ、デンマーク、スウェーデン、英国はいずれも「法の支配」を国是とし、これら諸国の移民政策は、必要な移民に大きく門戸を開放した上での、制度維持のための調整である。
ところが、その政策意図は削ぎ落とされ、あたかも参政党と同じ価値観から生まれたかのように語られる。これは比較ではなく、曲解である。
共同通信の全国首長アンケートでは、首長の86%が外国人材受け入れの推進が必要だと答えた。
医療・介護、一次産業、製造業など、地方の「生活インフラそのもの」が人手不足で回らないからだ。地方分散を掲げる政党が、地方の現場責任者である首長の大半が「必要」と答えた政策対象を否定するなら、その時点で自己矛盾である。
にもかかわらず、都市へ移った若者層に「排除の快感」だけを売る政治は、結局、地方に残る親世代へ苦しみと金銭的負担を押し付ける党――私には「親不孝推奨党」にも見える。
私は、先に触れたように、外国人問題を政治課題にした参政党の勇気は評価する。しかし同時に、日本人第一を掲げながら、思想は舶来物で、海外諸国の制度を切り貼りし、会計を空白にした政治は、無責任を超えて、最も危険だと言わざるを得ない。
こうして、事実と構造を並べてみると、参政党に一貫しているのは理念ではなく矛盾であり、その矛盾こそが最大のリスクだと断言せざるを得ない。
極めて危険な政策を内在する参政党は、政治世界の「トリカブト」に似ている。
英語名 monkshood(修道士の頭巾)と呼ばれるトリカブトは、謙虚さと傲慢さが紙一重の、美しい花を咲かせる野草である。日本全国の山林に自生し、花や葉の美しさから園芸用としても販売されているが、恐ろしいのはその圧倒的な毒性だ。葉はもちろん、花粉や蜜にも毒が含まれており、解毒剤は存在しない。
参政党が真の保守に見えるように、トリカブトは草餅に酷似した葉を持ち、見た目は無害でも、一口噛めば致命的であるだけでなく、素手で触れたり傷口に触れたりするだけで、皮膚から毒が吸収され、中毒症状を引き起こす恐れがあるという。
それでも、自然をあるがままの姿で守る日本では、公共の場(山地や公園など)において、トリカブトを組織的に一掃するような「全面的除去」は行われていない。
その理由は、生態系の一部として自然をあるがままの姿で守ることが重要だという思想に基因しており、この考えは、我々が享受する法の支配下における自由と同じく、尊重すべき思想である。
したがって、社会に猛毒を流す恐れのある参政党であっても、強権をもって排除することは厳に慎むべきであり、国民の意思の表れである投票を通じて結論を出すべきだと考える。その投票日を間近に控えた今日、一度立ち止まって、日本の将来を考えたいと思った次第である。
北村隆司 (ニューヨーク在住)