北アフリカに位置するリビアで約42年間、独裁政権を維持してきたムアンマル・アル=カダフィ大佐の次男セイフ・アル=イスラム・カダフィ氏(53)が殺害された。同氏の顧問アブドラ・オスマン・アブドゥルラヒム氏は3日、リビアのアル=アフラール・ラジオに対し、「4人の覆面をした武装集団が自宅を襲撃し、監視カメラを無効化した上で彼を射殺した」と語った。また、セイフ・アル=イスラム氏の従弟ハミド・カダフィ氏は、アル=アフラール・ラジオ局に対し、「彼は殉教した。これ以上の情報はない」と電話で語っている。複数のメディアによると、セイフ・アル=イスラム氏はリビア北西部のジンタン市にある自宅の庭で射殺された。リビア検察当局は4日、検視の結果、死因は銃弾による傷であったと確認した。
セイフ・アル=イスラム氏
父親カダフィ大佐は2011年殺害され、アル=イスラム・カダフィ氏は同年11月、リビア南部で反体制派武装勢力に拘束され、拷問で指を切られ、2015年には銃殺刑の判決を受けたが、17年6月、恩赦を受けて釈放された。その後の行方は不明だった。ただ、同氏は2021年11月14日、大統領選に出馬届けをしたことで健在であることが判明していた。
セイフ・アル=イスラム氏は長らく父の後継者と目され、2011年のアラブの春以前は穏健で改革志向のイメージがあった。しかし、北アフリカ諸国の抗議運動(アラブの春)では残忍な弾圧を支持した。2011年11月、彼は国際刑事裁判所(ICC)が発行した逮捕状に基づき、リビア南部で逮捕された。2015年、彼は反乱中に犯した罪により、トリポリの裁判所で欠席裁判で死刑判決を受けた。後にリビア東部の敵対政権によって恩赦を受けた。そして2021年、長らく姿を現さなかったセイフ・アル=イスラム氏は、突如として姿を現し、リビアで予定されていた大統領選挙に立候補した。しかし、憲法上の根拠と候補者をめぐる対立により、選挙は実現しなかった。
2011年のカダフィ政権崩壊後、リビアは東西分裂と民兵組織の割拠による深刻な内戦・混乱状態が続いてきた。現在は国際社会が承認する西部トリポリのドベイバ政権と、東部ベンガジを拠点とするハリファ・ハフタル陸軍元帥が率いるハマーダ政権に分断された状況だ。石油利権を巡る外国の介入で情勢は複雑化し、治安は不安定だ。
セイフ・アル=イスラム氏の殺害について、トリポリのドベイバ政権とつながりのある民兵が殺害に関与したのではないかとの憶測が流れている。トリポリ国防省とつながりのある民兵は、殺害への関与を否定した。セイフ・アル=イスラム氏は政界復帰の準備を進めていたと報じられており、ドベイバ首相とその支持者たちにとって潜在的な脅威となる可能性があった。
セイフ・アル=イスラム氏はオーストリアとは縁が深かった。そのこともあって、当方は同氏とウィーンで単独会見する機会があった。セイフ・アル=イスラム氏は1998年から2000年の間、ウィーン大学で経済学を学ぶために留学していた。その後も頻繁にウィーンとトリポリの間を行き来していた。オーストリア訪問時に同氏を世話したのは在オーストリアのリビア大使だったが、オーストリア側の世話人は当時の極右政党「自由党」党首イェルク・ハイダー氏だった。当方がセイフ・イスラム氏に初めて会ったのはハイダー氏が開いたイベントでだ。
カダフィ大佐は2003年12月、米国の提案を受け入れて、大量破壊兵器(WMD)全廃宣言をし、その代りにリビア側は国家の体制保持を得た。カダフィ大佐は当時、北朝鮮の故金日成主席と交流があった。そこで当方は、北朝鮮の核問題に対するリビアの見解を聞くことが狙いでセイフ・アル=イスラム氏に会見した。同氏はインタビューの中で、「父に随伴して北朝鮮を訪問し、金日成主席と会見したことがある。わが国と北朝鮮は久しく良好関係を堅持してきた。その意味で、北朝鮮の核問題については懸念している」と述べ、米国が北側の体制の安全を保障すれば、平壌側も核問題でもう少し柔軟に対応してくるだろうと語ったことを覚えている。
セイフ・アル=イスラム氏のウィーンの私邸で若い女性が窓から落ちて死ぬという事故が起きたことがあった。メディアは当時、さまざまな憶測情報を流した。その同氏を援護したのがハイダー氏だ。ハイダー氏は当時、欧州の極右派指導者として勢いがあった。同氏はリビアを訪問し、カダフィ大佐とも会い、政治資金を得ていたという噂があった。ハイダー氏はリビアを含む中東諸国と深い人脈を有していた。
ウィーン滞在時にセイフ・アル=イスラム氏を世話した人物はハイダー氏のほか、もう1人いた。リビアのカダフィ政権下で首相や石油相を務めたシュクリ・ガネム氏だ。同氏がウィーンの石油輸出国機構(OPEC)の副事務局長(調査局長)だった時、当方は数回、会見した。ガネム氏はOPEC時代、セイフ・アル=イスラム氏のアドバイザーのような立場だった。彼が留学中、ガネム氏はセイフ・アル=イスラム氏のためにさまざまな雑務をこなしていた。
カダフィ大佐ファミリーから信頼を得た同氏はリビアに戻った後、03年から06年まで首相を務め、06年後は国営石油会社NOCのトップに就任した。同氏はカダフィ大佐の腹心として石油ビジネスで稼いだ富をウィーンやスイスの銀行で管理していた。ガネム氏はウィーン市20区にペントハウスを持ち、会社を経営していた。
カダフィ家の世話人でもあったガネム氏はリビアでカダフィ政権打倒の民主化運動が始まった時、「カダフィ政権と袂を分かつ潮時を迎えた」(中東問題専門家アミール・ベアティ氏)と判断を下したのだろう。11年5月、ウィーンで亡命生活を始めた。その同氏は12年4月29日、ドナウ川で遺体となって発見された。死因は不明だ。
ハイダー氏は2008年10月、交通事故で急死し、ガネム氏は原因不明の死を遂げた。そしてセイフ・アル=イスラム氏が今回、リビアで射殺された。リビアを42年間君臨した独裁者カダフィ大佐と関わった家族関係者、忠臣、友人はいずれも不幸な終わりを迎えたわけだ。
ちなみに、セイフ・アル=イスラム氏の殺害は、リビア国内で依然として彼を支持していた旧体制派や部族勢力の反発を招く恐れがあり、不安定なリビア情勢はさらに混迷する可能性が出てきた。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年2月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。