独ミュンヘン・フライジング大司教のラインハルト・マルクス枢機卿は11日、ミュンヘン安全保障会議(MSC)に併せて開催された第3回神学平和シンポジウムのパネルディスカッションで宗教が政治、暴力、そして戦争に利用されていることに言及し、「ロシア正教会最高指導者モスクワ総主教キリル1世の発言は異端だ」と批判した。
モスクワ総主教の発言を批判するマルクス枢機卿、2026年2月13日、イタリア通信ANSA
マルクス枢機卿は、宗教指導者が権力に危険なほど接近しようとする世界的な傾向を憂慮し、「宗教は権力者の側に立つべきではなく、弱者と被害者の側に立つべきである」と、教会の使命を強調した。また、真理の探求においては謙虚さを求め、「私たちは真理を所有しているわけではない。すべての人間は神の似姿として創造された。私たちは皆、兄弟姉妹である」と述べている(バチカンニュース2月13日)。
ところで、1月7日はロシア正教会のクリスマスだった。敬虔な正教徒といわれるロシアのプーチン大統領はモスクワ地方の聖ゲオルギオス大殉教者勝利教会でクリスマス礼拝に出席した。プーチン氏は礼拝後、「ロシア軍の兵士たちが主の命に従うかのように、祖国と国民を守るという神聖な任務(holymission)を遂行している」と述べ、軍事行動を宗教的な正義として正当化した。プーチン氏のナラティブを支えているのはロシア正教会最高指導者モスクワ総主教キリル1世だ。
世界の正教会の大多数がウクライナ戦争に反対しているなか、キリル1世はプーチン大統領のウクライナ戦争を「形而上学的な闘争」と位置づけ、ロシア側を「善」として退廃文化の欧米側を「悪」とし、「善の悪への戦い」と解説する。そして一貫してプーチン氏を支持してきた。
キリル1世はウクライナとロシアが教会法に基づいて連携していると主張し、ウクライナの首都キーウは“エルサレム”だという。「ロシア正教会はそこから誕生したのだから、その歴史的、精神的繋がりを捨て去ることはできない」と主張し、ロシアの敵対者を「悪の勢力」と呼び、ロシア兵士に闘うように呼び掛けてきた。キリル1世はウクライナとの戦争を単なる政治的紛争ではなく、キリスト教の価値観を守るための「聖戦」であると主張し、西側諸国を「世俗化し、サタン(悪魔)主義に陥った存在」と定義、ロシアをそれに対抗する「神聖な法の守護者」と位置づけている。マルクス枢機卿はそのキリル1世の教えを「異端だ」と一蹴したわけだ。
モスクワ総主教キリル1世とプーチン大統領 クレムリンHPより
それだけではない。マルクス枢機卿は、ロシアの戦争プロパガンダと米国政治の特定の潮流の間にイデオロギー的類似性があると指摘、米国で反自由主義的傾向が強まっていると懸念しているのだ。
マルクス枢機卿が懸念するロシアのキリル1世の世界観と米国のトランプ政権下の一部で見られる政治運動の間の類似性とは、リベラル・デモクラシーに代わって神の教えを中心に据えた世界の建設を目指すネオ・インテグラリズム(Neo-Integralism)だ。ロシアでは独裁者プーチン大統領とキリル1世の世界観であり、米国では現代のリベラル・デモクラシーに代わり、カトリックの教義を政治・社会運営の基盤に据えようとする政治的運動「カトリック統合主義」だ。
ネオ・インテグラリズムの特徴は政教分離の否定だ。国家(政治権力)は、国民の現世的な利益だけでなく、霊的な幸福(最高善)にも配慮すべきであり、政治権力は最終的に教会(精神的権力)に従属すべきだと主張する。また、現代の自由主義を「腐敗した支配階級」と批判し、キリストの王権を認める社会秩序への「体制転換」を目標に掲げる。「個人の自由」よりも、カトリックの社会教説に基づいた「共通善」を優先する国家運営を目指すポスト・リベラリズムの世界だ。
ネオ・インテグラリズムは、米国ではJ.D.バンス副大統領などの政治家や、テック界の有力者ピーター・ティールらが関心を示す「ポスト・リベラル」の動き(新右翼)と知的に共鳴している。現代の世俗的な自由民主主義が、格差、分断、価値観の混乱(ジェンダー論争など)に直面する中で、「強力な権威」と「明確な道徳的指針」を求める層にとって、この思想が強力な代替案となってきている。ネオ・インテグラリズムは、戦後長く続いた「政治と宗教の分離」や「個人の自由」というリベラルな合意を、知的・法的な側面から解体しようとする現代の反革命運動と受け取られているほどだ。
米国の政治学者パトリック・デニーン教授は、2019年に刊行された著書「リベラリズムはなぜ失敗したのか」において、現代の閉塞感はリベラリズムが「うまく行き過ぎた結果だ」というのだ。リベラリズムは「個人の自由」を最大化するため、家族、地域共同体、教会などの「中間集団」による拘束を壊してきた。その結果、人々は自由になった反面、孤独で無防備な個人となり、肥大化した国家権力に直接支配されるようになった。リベラリズムは「善き生き方(徳)」を教えず、各々の「欲望の充足」を支援する。これが環境破壊や過度な不平等、文化的な浅薄さを招いたというわけだ。
ネオ・インテグラリズムに対し、リベラル派から当然、批判が聞こえる。「神権政治への逆行」、「民主主義の根本的な破壊」、「多元主義の崩壊」といった批判だ。そしてカトリック内部からも批判が聞かれる。教会の近代化を促進した第2バチカン公会議との矛盾だ。1960年代の第2バチカン公会議では「信教の自由」が認められたが、ネオ・インテグラリズムはそれ以前の「教会支配の世界」に戻ろうとしているからだ。
マルクス枢機卿の批判は戦争を擁護するロシアのモスクワ総主教キリル1世に向けられているが、同時に、米国で台頭してきたネオ・インテグラリズムへの強い警戒心がその根底にある。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年2月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。