今日(8月16日)の日本経済新聞朝刊の「けいざい解説」で、「日本の金融行政に戦略性が乏しいこと」が批判的に指摘されている。確かに事実としては、そうだと認めざるを得ない。しかし、ここでもやはり「なぜ戦略的に振る舞えないのか」の理由を考えてみることの方が重要だと思う。
金融危機後に規制監督体制の見直しの議論が国際的に活発化することは、容易に予見可能であった。それゆえ、私個人は、日本については金融危機の影響が比較的軽微で余裕があるとみなされていた2008年時点で、余裕があるならば早めに問題点を検討し、国際的な見直し議論のイニシャチブをとれる準備をしておくべきだということを、機会があれば発言していた。
例えば、リーマンショックの直後に、財務省の「ランチミーティング」で話をする機会があり、そのときのレジュメの書き出しには、
米国の金融危機が今後どのような展開を示し、どのように収束するのかを予想するのは、報告者に比較優位のある作業ではない。それゆえここでは、危機の来し方を振り返った上で、危機の収束後に、われわれがどのような状況に直面していることになるかを検討し、それに対応する方策を早めに準備する必要性を述べたい(今回、元の鞘に収まることになると思っている者は、ほとんどいない)。
と記した。
しかし、正直に言って、こうした発言に対する反応は一般には希薄なものだった(ただし、名誉のために付言しておくと、同「ランチミーティング」に出席されていた中尾・国際局次長<現・局長>は、強い共感の意を表明してくれた)。新聞の論説などでも、そうした準備の必要性を説いたものがあったとは寡聞にして知らない。反応の乏しさに、私自身もその点を強調することは少なくなった。
これら諸々の結果として、後知恵的に言うと、せっかくの「余裕」を活かすことはできず、後手に回ってしまったきらいがある。そして、このように「なぜ戦略的に振る舞えなかったか」の理由としては、この場合には大きく2つあると考える。
戦略に関する中川信博氏の記事は、大変勉強になるものだったが、その中で指摘されているように「戦略とは政策があってはじめて機能する概念」である。そうだとすると、金融行政が戦略的であるためには、それが奉仕すべき政策が存在していなければならない。金融に関してそうした政策が存在しているのか、というのが第1の論点である。
世界の2大国際金融センターを有するアメリカとイギリスはもちろん、アジアでもシンガポールや香港は、金融・資本市場および金融サービス産業の競争力強化を国家的優先課題の1つとしてとらえている。これらの国々には、いわば「金融立国の覚悟」がある。
これに対して、日本には、そうした覚悟はないように思える。もちろん、今回の総選挙の争点にもなっていない。2007年末に「金融・資本市場競争力強化プラン」がとりまとめられ、実は金融立国が日本政府の方針になっているはずだが、金融力の強化に反対する意見や風潮はわが国において根強く存在する。金融力の強化を図ることは、むしろ日本の産業力を弱くすることになりかねないという見方をする者も、日本では少なくない。
こうした傾向を反映して、2008年のわが国では、米国型金融資本主義が行き詰まったことで、やはり「ものつくり」が大切なんだとかいって溜飲を下げる、他人の不幸を喜ぶような雰囲気(Schadenfreude)が支配的だった。しかし、金融立国という政策目標の確立なしに、金融行政が戦略的であり得るわけはない。そもそも金融立国を目指さないならば、金融行政が戦略的でなくても一向に構わないはずである。
これが、第1の理由ではないか。
なお、金融立国というと、金融だけに特化して「ものつくり」とかは止めてしまうことだと早合点(あるいは曲解)する人がいるようなので、誤解を避けるために繰り返しておくと、ここでいう金融立国とは、「金融・資本市場および金融サービス産業の競争力強化を国家的優先課題の1つとして位置づける」という意味である。したがって、金融立国と環境立国、あるいは観光立国といった話が必ずしも排他的で、両立しないというわけではない。
第2の論点は、やはり日本の金融が遅れているからということに関わる。これは池尾・池田本で強調した論点だが、アメリカは金融最先進国で、市場型金融を最もよく発展させていた。そこで起こった問題に対して、市場型金融に関しては発展途上国でしかない日本は、包括的な解決策を提示できるほどの経験や知見の蓄積をもたないという問題がある。
繰り返しになるが、規制監督体制の見直しが国際的な議論の対象となることは分かり切っていたので、池尾・池田本でも、その第6講のその2で「規制監督体制見直しの課題」をテーマとして取り上げている。ここで本当は、今後の規制監督体制のデザイン、制度設計のアウトラインのようなものをある程度具体的に示したいと思っていた。しかし、私の力量だと、そこまで行くのは到底無理で、見直しの視点のようなものをやや抽象的に示すにとどまった。
私を含めて日本人のほとんどは、自国に高度かつ複雑な市場機構が存在していないので、それがどのように機能しているのかの詳細を知りようがない。せいぜい文献を通じて学ぶことができるだけである。こうした状況で、欧米を説得できるような包括的な見直し案を用意するというのは、なかなか難しい。中学生に大学入試の問題を解けといっているようなところがある。
この意味で、経験と知見の不足が第2の理由である。
コメント
OR(作戦研究)でも、戦略というのは目的関数があって初めて成り立つので、目的関数もない状態で戦略が立たないのは当然ですね。こういう問題も含めて、軍事問題をタブーにしてしまったことが、ますます「平和ボケ」による戦略の不在を深刻にしていると思います。
藤本隆宏氏などは、経産省に「日本はものづくりが強いのだから、強いものを伸ばすのが当然だ」と提言し、それを受けて「すり合わせの強みを生かす成長戦略」が立案されたりしています。これはORでいえば、「あり余っている資源をもっと増強しろ」という戦略で、兵站を放置して戦艦大和をつくった日本軍と同じです。
ORの基本は、逆に「ボトルネックを補強する」ことです。日本経済でいえば、トヨタや松下に対して政府ができることはないのだから、大きく立ち後れている金融や通信などを規制改革で強化しないと日本経済全体が立ち直れないのに、パイオニアやらエルピーダやらにアドホックに税金を投入する。
Dantzigがシンプレックス法(ORの基本アルゴリズム)を開発したとき、最高の軍事機密として戦後まで学会発表もできなかったそうですが、これは正しいですね。戦略的な資源配分こそ最大の軍事力であり、日本はいまだにそれを学んでいない。