今日、日本に住んで長くなるイタリア人の友人と食事をしましたが、彼は、中学を受験しているご子息のことで深刻に悩んでいました。この人はお父さんの代から学者だった教養人で、イタリアで知りあった日本人の奥さんは日本の某超一流大学の準教授です。そういうご夫婦ですから、息子さんを「中高一貫教育をしてくれる良い中学校」に入れたかったのですが、うまくいっていません。それもその筈、「子供を塾などに通わせるのは間違っている」という考えから、塾に通わせるなどの受験の準備は、全くやっていなかったからです。
このご夫婦には息子さんが二人いますが、日本が長いので、二人とも日本語は普通に出来ます。イタリア人の血が流れているからか、サッカーが大好きで、音楽も大好きです。家では両親はイタリア語で話しているので、イタリア語もある程度出来ます。闊達でハンサムな愛すべき少年達なのですが、おそらく受験勉強は好きではなかったのでしょう。
そもそも、生まれつき受験勉強の好きな子供達などはあまりいるとは思えませんが、親達が「受験勉強をするのが当然」と考えていれば、当人達も自然にそう考えるようになるでしょう。塾に通っていれば、そこで友人も出来、それなりに「受験勉強」というものにも興味が出てくるのだと思います。日本の親達でも、まともな人達なら、今の受験勉強のあり方や「塾通い」がよいことだと、本気で考えている人はあまりいないでしょうが、「子供達の将来の為を考えると、仕方ない」と思って、やらせているに違いありません。
しかし、外国人は、日本人ほど簡単に「仕方ない」とは考えません。「絶対に間違っている」と思うのです。そう思ってみたところで、それを変えることは出来ませんが、だからと言って、自分が「間違っている」と考えることを子供達に強い、好きなサッカーをやる時間まで削らせるなどということは、とても出来ないのです。
だから、塾などには行かせなかったのです。しかし、実際に受験となると、その咎を受けるのはどうしようもありません。そして、今、このご夫婦は、「塾に行かせなかったのは本当に正しかったのか?」と、真剣に悩んでいるのです。
彼等と話しているうちに、私も、考えれば考える程、日本の「塾システム」の馬鹿々々しさに気分が滅入ってきました。このイタリア人の友人は、「負け惜しみで言うのではないけど、こういうシステムで教育された日本の若者の『国際社会での競争力』は、必ず落ちていくと思うよ」と言っていましたが、私もそう思います。
日本の塾システムは、学校でやっているのと同じ教科を、ほぼ同じ目的で、並行して教えるシステムです。欧米人には、これは全く理解できません。もし本当にそれが必要なのなら、「現在の学校での教育は有効に出来ていない」ということなのですから、「それなら、学校での教え方そのものを変えなければならない」と考えるのが当然だからです。
「学校で教えない教科を教える為の特殊な塾がある」というのなら分かります。高校が終わってから、ストレートに入れなかった大学を受験する為の「進学予備校」があるというのも、勿論理解できます。しかし、「小学校の時から、上級の学校に行くための特殊教育を、普通の学校教育と並行して受けなければならない」というシステムは、彼等にはどうにも理解できない代物である筈です。「crazyと言う以外にどう言えばよいのか?」と、彼等は心の中できっと考えていることでしょう。
最近の入試がどんなものなのかについては、私は殆ど何も知りませんが、恐らくは、それぞれの学校が、「どうすれば不合格者をふるい落とせるか」について智恵を絞っているのではないでしょうか? こうなると、幾つかの「トリッキーな問題」が受験生の運命を決めることになりますから、受験生側としても、そういう問題に対する対策がなければならないことになります。
私は、幸いにして、これまでの生涯で「試験に落ちる」という憂き目にはあまり会ったことはありませんでしたが、一度だけ落ちたことがあります。それは、大学生の時に受けた自動車の普通免許の筆記試験でした。
実地試験はともかく、筆記試験については、私は全く楽観視していましたが、それでも「法規」と「機構」の両方の分厚い参考書を買ってきて、それを読破、試験の直前にも或る程度のおさらいをして、自信を持って試験会場に行ったのです。それなのに敢無く不合格、私は「何故だー!」と頭をかきむしりました。
しかし、その理由はすぐに分かりました。この頃の自動車免許の筆記試験には、受験生の間では有名な、幾つかの「引っ掛け質問」があり、私はまんまとその全てに引っかかってしまったのです。受験生の間の常識は、この様な「引っ掛け質問」の全てを網羅した「問題集」を買って、単純に「この答を覚えておく」ことであり、それ以外の勉強は実は一切要らなかったのですが、「まさか筆記試験で落ちることはないだろう」とタカを括っていた私は、そんなことさえ知らなかったというわけです。
しかし、その時の私は、「交通法規」についても「自動車の基本的な構造」についても、さっさと合格した普通の人達より、本当は余程よく分かっていた筈です。つまり、「引っ掛け質問に対する対応力」が問われるのではなく、「幅広い知識」が問われるような本当の競争の場になれば、私の方が本当は実力があった筈なのです。
私にはこういう経験もありました。
私が、以前に、技術開発力では超一流と折り紙のついていたアメリカの会社(クアルコム)の日本法人の社長をしていた時に、本社の技術標準化部門の長だったアメリカ人の友人が「博士号を持つ日本人の若い技術者を雇ってみたい」と言うので、東京大学の先生に紹介してもらって、ちょうど博士号を取ったばかりの一人の学生に面接を受けてもらうことになりました。
面接と言っても、アメリカまで出かけていくのはお金もかかって無理なので、電話での口頭試問で勘弁してもらうことにし、更に「英語が聞き取り難い日本人には電話での口頭試問は不利だ」と主張して、事前に質問事項を送ってもらいました。質問は全部で10項目あり、全て2―3行の長さです。特に専門的な言葉はそんなに多くは使われていませんでした。
勿論、私にはちんぷんかんぷんでしたが、驚いたことに、この質問表をこの学生さんに見せたところ、彼の顔色が段々悪くなり、「口頭試問は受けません」と言うではありませんか。理由は単純で「合格する自信が全くない」ということでした。
私は早速アメリカ本社に電話をして、友人にその旨伝えると、彼は首をひねり、こう言いました。
「何故なんだ? 受けるだけ受けてみたらいいじゃあないか。もともと、あの質問には『正解』なんていうものはない。何かについての知識を問うているわけでもない。自分は、相手との会話の中から、『基本的な物の考え方』とか、『論理の筋道の立て方』、『問題解決への方策の探し方』、更には『人間性』等を感じ取ろうとしているのだ。博士レベルの人間を採用する時にはいつもやっていることだし、現実に後の仕事ぶりを見ていると、このやり方を通して私が判断したことが、概ね正しかったことも証明されている。」
私は「成る程」と思い、この学生さんにそのまま伝えましたが、残念ながら、彼の考えは全く変わりませんでした。「自信がない」の一辺倒で、「そういうことが問われる世界には入って行きたくない」という気持すら感じ取れました。
さて、色々なことを考えているうちに、私の考えは、目の前にいる私の友人の子供である、日伊混血の可哀想な少年のことから、日本人の若者全体の将来のことに広がりました。何も知らずに、「塾システム」に象徴されるような「日本の奇妙な教育システム」の中にどっぷり漬かっていく日本の若者達の方が、実はもっと可哀想なのだと思えてきたのです。
私がイタリア人の友人にしたアドバイスは、「日本の基準での優等生になることを息子さんに求めるのは意味がない。日本(更に出来れば、中国、韓国を含めた「東洋」)と欧州の両方の文化(価値観)を理解する人間になることを目指せば、そういう人間を求める仕事に将来必ず出会える筈だ」ということでしたが、それでは、そういう人間を育てられる場がどこにあるのかと問われれば、口をつぐまざるを得ませんでした。しかし、それは、そのまま、日本の若者達の為にも答えてやらなければならない問いだったのだと思います。
画一的な価値観ではなく、多様な価値観に支えられた教育。それぞれの人間の多種多様な興味を尊重し、それを育てていくような教育。表面的なものではなく、真に自らが誇れる「実力(競争力)」を身につけられる教育。そういう教育こそを、日本の若者達の為に、我々はこれから作り出していかなければならないのではないでしょうか。
私には三人の子供達がいますが、私は彼等に財産を残すつもりはありません。しかし、ちゃんとした高等教育だけは受けさすことが出来ました。「借金も残さないだろうし、老後の面倒を見てくれと言うつもりもないから、これだけで、十分親としての責任は果たしたことになるだろう」と思っています。しかし、日本人の一人として考えた時、我々は本当に次世代の人達に対する責任を果たしていると言えるのでしょうか?
我々の世代は、若い人達に対して、実は「問題だらけの教育」しか与えてやれておらず、しかもその一方で、厖大な借金を残していこうとしているのです。今のままでは、彼等の能力が、近隣諸国の人達の能力に比べて、将来とも競争力を持てるという保証は全くありません。彼等の生活水準が、近隣諸国の生活水準と比べて、より高いものであり続けるという保証もありません。これは、我々としては、何とも情けなく、恥ずかしいことではないでしょうか。
教育の改革は、特に火急の問題だと思います。文部科学省も、日教組も、教育システムを現在のような形にしてきた当事者ですから、あまり信用するわけにはいきません。日教組出身の興石さんが「陰の実力者ナンバー2」だといわれている民主党に、全てを委ねているわけにも行きません。
民主党が高校の無料化を実現してくれたとしても、こうして高校を出た若者達は、その後どこに行くのでしょうか? 大学以上の教育を受けることはあきらめ、民主党が守ってくれそうな「きちんとして労働組合」のある大企業の正社員になることもあきらめ、労使を問わぬ「既得権者」から容赦なく切り捨てられる不安定な立場で、一生を暮らさなければならないのでしょうか? それとも、無料化にしてもらった高校の授業料をはるかに超えるお金を、塾や予備校に支払って、日本の雇用システムと昇進システムの中で、うまく立ち回っていく道を選ぶのでしょうか?
日本は鎖国しているわけではなく、これからも鎖国することはないでしょう。そうであるなら、国債の評価も、ビジネスも、教育システムも、全てを諸外国の状況と比較し、競争力のあるものにしていかなければなりません。文部科学省も、日教組も、民主党も頼りにならないとなれば、このことに危機感を抱く人達が声を上げて、どこかで突破口を開くしかないと思います。
コメント
松本さんの懸念は非常に良くわかりますし、かといって簡単な回答がないのも事実だと思います。何かしら試行錯誤、カイゼンをしていくしかない。まず現状の仕組み自体がおかしいことに声を上げテイク事が必要です。特にイタリア人のご友人がcrazyとコメントした公教育と塾の位置づけは何かしら対策する必要があると思います。また、この塾の位置づけについておそらく現状の40才以上の政治家は全くご友人と同じように考えていて、改善の必要性が認識されていないのではないかと恐れます。
一方で、この松本さんの投稿に対し「日教組が」「文部省が」と言ったコメントがつく可能性が高いと思いますが、そういう他人に責任を押し付ける態度、言い換えれば「思考停止」がこの事態を生んだのではないか、と反省すべきと考えます。そういう教育に問題があると思っても何かしらの行動を起こさなかった「大人」の責任では、と思います。
谷井といいます。私は大企業に勤めているわけではなく、その辺にある中小企業に勤めています。労基法も守られていないし、解雇も横行しています。この立場で言わせてもらうと、人間らしい生活をしたいなら受験勉強をお勧めします。
日本の教育は平凡な人向けであり、平均値を高めることができます。対して欧米、とくに欧州ではエリート教育が充実しています。
才能があれば欧州型、平凡ならば日本型がいいと思います。しかし忘れてはならないのは、欧州型が良いといっても、何年かに一人にとって良いだけで、ただ単に一流大学を卒業し教授になるくらいが関の山の平凡な人間にとっては欧州型がベストだとは思いません。
個人的には大多数の一般人向けの教育である日本型が優れていると思っています。一部のエリートのために税金を出すのは首肯できません。仮に才能があるのなら大学などの高等教育機関ではなく、個人伝授の私塾がよろしいかと。
本当に切実な問題です。香港でセガレを日本人学校に入れていますが、高学年生のご父兄が帰国後の中学受験に頭を悩ませておられる様子を見るたびに、毎日元気に学校へ向かうセガレの背中に時限爆弾がぶらさがっているような気がしてなりません。そして貴重な少年時代の時間と引き換えに得るものが、国際性のない「日本の学歴」では、あまりに引き合いにあわないのじゃないかと思うと、ますます思考の迷路にさまよう気持ちです。
セガレには、異国の地でも日本男児として最低限の教養を身につけてほしいと思って日本の教育を受けさせていますが、それによってセガレが日本の教育システムの犠牲になっていくのをみるのは忍びないのです。
矢澤 豊
多くの日本企業が社員を採用する時に何を基準に判断しているかというと、大学入学時にどれくらいトリッキーな問題パターンとその解答を覚えられたかです。
それにより、入社後自分たちが自社内の仕事のスキルを習得可能かどうかを予想するのです。
しかし、そこで評価される能力は内容は複雑であっても静的な知識でしかないのです。
はじめて出会う問題があってそれをどう解決するかといった動的な対応能力を測ることはできません。
そういった能力を評価することは難しいことではあります。
しかしコンピュータやネットワークの発達により静的な知識の価値が低下した現代では、動的な理解力や判断力、構想力の重要性が相対的に増大してきていると思います。
今後は、そういった能力の育成および評価が世界を相手にしていく上で重要になるのではないかと考えています。
celtic_tiger(谷井)さん
このコメント欄で質問差し上げることが良いのかどうかわかりませんが、「欧米、特に欧州のエリート教育」というのは、よく聞くことなのですが、平均的なレベルの教育は日本より劣る、と言う理解でよろしいのでしょうか?
といいますのは、私は現在アメリカに在住しておりまして、近在の小中高校を見ておりますと、学校ごとに非常に厳しい競争が行われています。学校の教育レベル(結果として試験の平均点等での判断になりますが)の向上のため地域ごとの予算獲得、教師のスカウトが公立の学校にても行われており、学校、地域ぐるみで日本では考えられないくらい激しい競争です。エリート教育とはかなり離れた形ではないかと思われ、既に日本はこの一般向け教育でも遅れを取っているのではないかと危惧を感じる次第です。
「欧米でのエリート教育」というのは日本にゆとり教育を導入するために伝えられた伝説ではないのかと、疑問を持っております。
今一度、アジア各国も含め欧米との教育スタイルや方法論を現時点で比較しなおすべきなのではないでしょうか。
東京にテンプル大学というアメリカの出先があります。知名度は低く入学はそれほど困難ではありませんが、多くの卒業生がアメリカの一流大学の大学院へ進学しています。但し、日本の大学のカリキュラムに合った授業ではないので、日本では大学と認められていません。日本の大学は文科省の認可を得ていても、殆どが大学とは名前だけですから、認可制度をやめれば、世の中の需要にこたえる本物の大学ができるのではないでしょうか。
公立の中学にすすめば受験の心配はないとおもいます。 そもそも、 地方では「中高一貫」といった教育をするところはすくないです。 公立の高校からでも一定の割合でいわゆる「超」一流の大学へ進学します。
知り合いの娘さんが公立の中学・高校の出身ですが、 MITでテニュアをもらいました。 「MIT Hosoi」でさがせます。
昔の話ですが、 ライシャワー氏が日本のよいところは、 例えば東大の新入生の5%もが、 経済的な最下層20%の家庭の出身であることであり、 こうしたことは米国等では考えられないことである、 と書いているを読んだことがあります。
日本でも、 そのうちバシングをしなければならなくなるかもしれません。
興味深く読ませていただきました。塾については問題も多いとは思います。基本的にこういうオケイコ事は、着かず離れずで通うのがいいのかなとも思います。
受験の算数については、おもしろい問題も多く、いわゆるゲームやパズルが好きな子であれば、興味深く勉強することもできるかもしれません。親が過度に結果を求めると、窮屈になるわけですが・・・。
中学受験の肝は、中学高校で学ぶべき学習のコツ、考え方のコツを早くから身に着けることにあります。表面上は算数という形をとってはいますが、将来、数学を学ぶときに必要な考え方を学んでいることになります。そのため、最難関私立校の大学受験実績が良いのです。
したがって、別に中学受験をしなくても、公立でゆったりと学んで大学受験に備えるというやり方でもいいのではないか、とも思えます。
むしろ、問題なのは、あまりに早くから、本人の意思に反した厳しい受験勉強を続けると、大学時での学習意欲というか、興味というのをそぐことになりはしないか、ということです。そのところが大きな弊害のようにも思えます。
もちろん、学習し、知識を身につけることはとても大切なのですが、そのために、意欲まで犠牲にしては、とてももったいないと思います。
現在の義務教育は、「記憶力」「論理思考力」の2点しか考慮されていないように感じるのですが、それより最も大切な事はインセンティヴだと思います。 インセンティヴがなければ記憶しようとも、考えようともしません。当たり前です。
子供が勉強に対していうせりふに「こんな事したって何も役に立たないよ」 というものがありますが、彼らがそう思うのはあたり前の事だと思います。 彼らの周りにいる大人を見て勉強に意欲を見せるほうがおかしい。理解するためのインプットが皆無なのだから、子供には嫌がらせとしか思えないはずです。
個人的な体験で言えば、高校生の時認知心理学の本をなんとなく手にとって「バイアス」という概念を知り、「普通に考えていたら間違うのが当然」という事を知り、そこにいたって初めて勉強する必要性を感じたのですが、義務教育では問答無用で訓練を強いるので、勉強嫌いを量産する結果になるのだと思います。
訓練にばかり重点を置くのではなく、そもそもなぜ勉強するのか? それが大人になってどう関係するのか? といった子供の素朴な質問に答えてあげるのがまず先だと思います。そのためには、まず教員の採用に「5年以上の(教員以外の)社会経験を有すること」 としたほうがよいと思います。
ナシーム・タレブのteitterです。
Education makes the wise slightly wiser, but makes the fool vastly more dangerous.
言語論的転回や認知論的転回すらすんでいない自称エリートをうむ、高校や大学の受験・モラトリアム構造が温存されるのは労働市場がないためでしょう。政治家をみれば、税金使っても鳩山さんや谷垣さんや菅さんみたいな人材しか作れないのかと思います。あと、森永卓郎とか金子、鳥越、浜・・・・
松本さん、NTT問題の記事は大変勉強になりました。
私は小中学生を対象とした学習塾でマネージャーをしております。
●「生活に役立たない難問奇問」だ
→小学算数の受験問題をご覧ください。詰め込みで解けるのは中堅私立までです。逆に難関私立は「頭が柔らかく知的好奇心が旺盛な子ども」を求めた問題を出します。
●「学校の授業だけで十分」
→授業参観に行けばわかります。取り扱う問題のレベル自体が昔より明らかに低下し、能力の高い子ほどひまをもてあましています。これは決して少なくない割合です。
ノーベル賞受賞の野依さんを始めとして、塾を知らない(通ってない)年配の方の多くが塾を誤解しています。もう少し塾や受験をお調べになってから発言して頂きたいと思いました。
進学するための試験って国によっては違和感感じるんでしょうね・・・・。
まあ、本人達には学校をアテにせず、教科書の練習問題を自分でやるなど、自学自習を進めるしかないと思います。
中学受験は確かにちょっと大変ですが、高校→大学と上になるにつれて教科書と過去問だけで十分合格点が取れるようになります。
(特に公立高校と、国立大学がその傾向が強いです。東大も例外ではないです。)
まあ、それだけだと本人が大変なので適度に勉強の効率を上げるために他の書籍を利用してますが・・・・。
松本さんの意見はいつも大変勉強になります。
松本さんの意見とこれに対する反論は、終身雇用の問題と似ているように感じます。
それが競争力を生んでいないことは明らかなのに、現在のシステムを変えないという前提では、受験勉強をひたすらやることや、終身雇用の大企業を選ぶことが各人の最適になります。
その結果、低位均衡に国家全体として陥っているのではないかと考えています。
現在の制度の下で塾は必要だけど、
制度自体を見直せという松本さんの意見に強く同意します。
同じ学歴であったら、塾に通っておらず現役で入学した人の方が、国際競争力の源泉たる地頭が良いようには感じています。
最近では、東京の早慶以外の私立よりも、地方国立を優先して採用する企業も増えています。
東京の私立なのに、早慶ではないということは、負のシグナルになりますよね。
入学大学だけではなく、入学にいたるまでの過程をシグナリングとしてみるようになってくれれば良いと思うのですが。
「一流私立中」の入試問題や東大の入試問題をまず解いてみてはいかがでしょう。なかなか良くできていて感心させられますよ。これらの問題をさらさら解けるということは確かに地頭がいいのでしょうし、日本の塾ではそれにみがきをかけているのでしょう。日本の秀才もたいしたもんだ。この調子で大学でも勉強研究しているのだろうとだれもが思うでしょう。ところが、一流の国際会議にでてみると、日本人の採録がほとんどない。あの秀才はどこにいった。なにも一流国際会議で採録されるだけが頭の使い方ではないでしょうが、ちょっとは頭を使ってくれてもいいではないか。この状態が欧米の教育制度の違いにあるかもしれないし、そのギャップが帰国子女の悩みであるのでしょうし、かのイタリア人のご子息の悩みなのでしょう。この違いは文化の違いであるので、にわかには解消しませんね。日本の大学は「身分」の一種であり、それがほぼ確定する入試でその存在理由の大半が満たされているということかもしれません。アメリカでも学歴主義だといわれるかもしれませんが、Harvard Law School などでも卒業できる割合は4割ぐらいでしょう。Google でも Stanford やMIT 卒が多くいますが、Ph.D のレベルが日本とはちがいますね。
>矢澤 豊さんへ
もし中学受験を考えておられるのでしたら、
じっと座って落ち着いて学習する習慣、
基本的な計算(四則混合、虫食い算、単位の計算)、漢字の書き取り(丁寧な字は必須)の徹底、
観察力や描写力(絵や図の書き写し、など)
立体把握力(レゴとか積み木とか)
をつけるように、すればよいですよ。
あとは何かしらゲーム(チェスとか将棋)を通じて戦略性を学ぶこと、自分の考えを持つこと(安易にみんなと同じことをさせない)、本質を考える習慣、こういった生きる知恵?みたいなものを学ぶとよいと思います。
こういったことは別に勉強で身に付ける必要はなく、日常生活のいろいろな場面で身に付けることができることもできると思います。
そして、こういったことがしっかりしていれば、1年半あればどこでも合格できます。
逆にこういったことができていなければ、何年しても最難関には合格できません。
松本さんの記事を楽しみにしているIT畑で働くものです。
今回のテーマの後半は大事な話だと思います。今の教育は社会人を育てると言う考え方がないのではないかと思うのです。
社会の中での自分を意識せずにただ教科書に書かれている知識を頭に入れても、その使い道は試験くらいしかないでしょう。これでは無償化された高校に通っても先は見えてきません。
ましてや子どもたちが活躍する社会はグローバルな世界です。外国の方の考え、その背景を理解して、こちらの意見をぶつける。そういうことができるような方向に舵を切る必要があると思います。
それは単に英会話ができるといった次元の話ではないわけです。
文科省、現場の先生にはそういったゴールを意識した教育を期待します。
undopurkinje様
コメントという場(松本さん、申し訳ございません)をお借りしてで、恐縮ですが、ご助言ありがとうございます。早速今日からやらせます。丁寧な字...をはじめ、思い当たることばかりです。
>東大の入試問題をまず解いてみてはいかがでしょう。なかなか良くできていて感心させられますよ。これらの問題をさらさら解けるということは確かに地頭がいいのでしょう
これは・・・・どういったらこのような発言が飛び出すのか・・・・
> これは・・・・どういったらこのような発言が飛び出すのか・・・・
東大の入試問題はそれなりによくできているし、それがすらすら解けるのはそれなりに頭の良さの証明である。その範囲では納得できる。しかし、国際的に戦える人材がそだっていない状況には別の原因があり、東大入試レベルに至る話にfocusしてもその原因を明らかにすることにならない。もし、別の基準を立てたら、東大入試レベルにfocusして帰納される頭の良さのとは質が変わるのではないかという話です。松本さんの話はそれと関連あるのではと。
「東大の入試問題はそれなりによくできているし、それがすらすら解けるのはそれなりに頭の良さの証明である。」
いわゆる「問題解決能力」とか言われるものですね。日本のエリートは「問題解決能力」は高いのに、「問題発見能力」は低いため眼前に差し迫った問題しか解決出来ない(というかまだ見えない問題は認識出来ない?)し、パラダイムを転換させるような問題提起を出来ないのだと思います。
aizu945さんが仰るように、東大入試試験は「問題解決能力」の試験としては非常に優れているのではないでしょうか?
日本の教育は「問題解決能力」を教えるばかりで、「問題発見能力」に関してはほぼノータッチであると思います。ただ現在の日本の公教育がそこまで面倒を見るのは不可能でしょう。
教育で有名なフィンランドの例を挙げます。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20050329us41.htm
9大学に教員養成学科があり、倍率は約10倍。しかも、フィンランドの大学は、教員養成に限らず、最短でも5年かかる「修士修了」が一般的だ。
http://benesse.jp/blog/20050721/p1.html
ヨウニ・ヴァリジャービ教授はこう述べています。
「フィンランドでは、『教師』は希望者の1/10 しか就業できない国民の憧れの職業です。教師はすべて大学卒業後さらに教員養成の期間が最低5年間、質の高い教員教育を受けます(日本の大学院修了レベル)。フィンランドでは長年にわたって何度も教育改革が行われてきました。現在は全国共通なカリキュラムがあるものの、自由度が高く実践する際には教師の自由裁量に任されている部分が大きいのです」
公教育の質を高めるには教師の質を高める必要があります。しかし現在の日本では「教育学部」はどちらかと言うと成績のあまりよくない学生が行く学部であり、一時期は「でもしか教師」と揶揄されたものです。教育改革はカリキュラムだけの問題ではなく、質の高い教師を育てるという点から始めなければならないでしょう。
どうもキツイ表現になってしまうので頭を冷やしてから前半についてもコメントをさせていただきます。
wonder_opportunityさんの書かれている通り、今の中学受験の様子は親以上の世代が考えているものまったく違っています。なぜなら親、お爺さんの世代が前提にしている受験は自分たちの大学受験のイメージだからです。
私も塾、受験に対してネガティブな印象を持っていましたが、現在のカリキュラム、公教育、私学などを調べるうちにポジティブなものに180度変わりました。
多くの私立の中高一貫校はまさに松本さんが認めるような教育をしようとしています。そのような学校の入試は難問奇問ではなく、自分の考えを書かせるような正解のない問題を出題するようになってきています。
そもそも私学というのは公教育に不満のある人が信念を持ってはじめるので、これは当然の結果といえるでしょう。そして、このような学校はアメリカにもイギリスにも存在し、みんなそれなりの準備をするものなのではないでしょうか。
それにしてもどうして塾で+αの勉強をしようとすると非難されてしまうのでしょうか。サッカーでもユース入りを目指すならそれなりのコーチについて特訓するだろうし、その場合は応援してもらえるのに。
1970年代の受験戦争の頃ならいざ知らず、いまさら塾批判。しかも受験の現況も調べずに。多岐にわたる論点が混じっていて松本氏自身も「なぐり書き」になってますね。「塾に行くことの妥当性」「公教育のあり方」とその裏面としての「私立中に行かせることの是非」「家庭教育のあり方」「教師の質確保」「6334制を初めとする現行学制の問題点」、「大学教育の危機と社会が高等教育に何を求めるか」といった根深い問題の一端が塾に現れています。肩入れもしないですが塾は需要があって存在し、それ自体はまったく正当なビジネスです。気に入らなければ使わなければよいだけ。日米欧では教育の仕組みも全然違います。
なお欧州では列車もバスも時間通りにこない、ネットや公衆電話は壊れっぱなし、ホテルでお湯が出ない、公共機関が平気でストをする、スリや、レジでの釣銭ごまかしなどが多い、失業率は大抵日本より高いですね。失礼ながら、日本からみればこうした「ある種のだらしない」状況はそれらの国の教育にも起因していると思いますがいかがでしょうか?
何のために「教育」をするのでしょうか。
最先端の研究開発で成果を出す人間を生み出すことでしょうか。世界に通用する日本人ビジネスマンを量産することでしょうか。
それとも社会不適合格者を作らないためでしょうか。
クリエイティブな行動やイノベーションを起こす人間というのは一括した学校教育による小手先の能力向上から生まれるとは思わないです。本当の意味で活躍する人間、カリスマ性を持った人間は「教育」によって生み出すことのできるものでは無いと思います。
加えて、大学等の研究機関への参加が即学歴や就職と関連づけて考えられる常識に問題があると思います。
学問や研究は仕事や義務とは別のものとして存在するべきではないでしょうか。
「塾」や「学校」の内容だけでなく、その先の道や社会の構造に問題はないのでしょうか。
開成卒業生です。
開成に受かるような人は、みんな塾での勉強を楽しんでますよ。暗記に汲々としながら、苦労して勉強するというステレオタイプははっきりいって間違いです。学校は授業が簡単すぎるので、塾の方が勉強が刺激的で楽しかったですね。
私は東大を出ましたが、東大は努力型が多いのに対して、開成は天才型が多いですね。
どちらにしても、塾は、子供の本来持ってる競争に対する本能を上手く引き出してくれましたよ。
決してトリッキーな解法を教えたりせず、本質から考える力を身につける教育をしてくれました。
大学の教育については、確かにまだまだ改善点はあると思いますが、中学受験の問題内容や、塾の教育は決して悪くないと思います。
中学受験経験者の間では、自分の思考力の礎を養ってくれたという点では異論はないと思います。
中学受験をしていない人は、かなりステレオタイプな見方が多いので、実際に受験したことのある人の意見を聞いたほうがいいですね。
>東大の入試問題はそれなりによくできているし、それがすらすら解けるのはそれなりに頭の良さの証明である。その範囲では納得できる。しかし、国際的に戦える人材がそだっていない状況には別の原因があり、東大入試レベルに至る話にfocusしてもその原因を明らかにすることにならない。
17世紀の国民国家主義的なカント・ヘーゲル的な思考様式だと、この方のように、屁理屈をつけて、逃げるんですよね。
国なんてものは、底辺の人間を守るために、所得の再分配をするためにあるのです。東大法がロースクールを作ったり、経済学部がリーマンブラザーズの寄付講座を受け入れたりしたのを見て、我が母校は終焉したと感じました。機械のような頭のいいやつを育てることは民間でもできる、それ以外の社会的に有害な人間を国が先導して大量生産しておいて、すごい思考の持ち主ですね。
全国の大学に天下りさせ、全体主義の思想をばら撒いた学者という欠陥品を回収するための学部を作ってはいかがか?
欠陥を入学時点の水際でとめないで、「いや、問題解決能力が・・・」とか言ってオカシイとは感じませんか?
>幾つかの「トリッキーな問題」が受験生の運命を決めることになります
せめてこの程度は勉強してから書いていただきたい。
不勉強の上、想像だけで書かれた文章に、説得力はありません。
jij999さん
生産的議論に発展しないのでやめますが、なにかの参考になるかもしれない資料のみ書いておきます。古くて手に入らないかもしれませんが。1) 1976, 日本物理学会誌, Vol.31,No.7 の記事「春宵放談」, 2) 日本IBMの発行していた雑誌、「無限大」、No.78, 志村五郎さんのエッセイ、「少年は大志を抱いたか」。
jij999さんの話はよくわかります。
批判しているかたは、労組とか軍人と同じですね。家父長的な宗教なので、検証もできない反証もできないことをアドホックな自説で強弁しているのにきづかない。
2チャンネルのような感じになるといやなのですが、わかりやすく・・・
あなた達の言ってることは以下のようなものと同一です
「個人金融資産がまだあるから、国内で国債が消化されてるから、GDP比200%の政府債務でもどんどん国債を発行すべき」
「郵政公社は単体で赤字ではないから機会費用なんてものは考えないでこのままでよい」
「科学技術は国民のためにあるのだから、コストを考えずに、トレードオフを無視して、研究費を増やすべき。削るなど言語道断、将来歴史の法廷に立つ覚悟はあるのか」
「金融で儲けた金は消費され還元されるのだし、公的資金は元本利息をそろえて返したから、金融危機がおきたら、税金で救うのは当然」