★★★★☆(評者)池田信夫
著者:宇野 重規
販売元:岩波書店
発売日:2010-04-21
古代ギリシャでは、ポリスの公的領域であるエクレシアと家庭の私的領域であるオイコスの間に、公的でも私的でもない「広場」としてアゴラがあった。これは現代風にいえば中間集団だが、現在の「後期近代」とよばれる時代の特徴は、こうした中間集団が崩壊し、社会が国家と<私>の二極に分解しつつあることだ。
トクヴィルは、アメリカでは孤独な<私>を結びつける教会や結社などの人工的な中間集団をつくる努力が意識的に行なわれていることを見出した。20世紀前半までの「前期近代」においては、<私>が<私たち>として意思決定するデモクラシーが国家のコアとなり、自由や平等や進歩などの価値が信じられていた。その極限形態が社会主義であり、冷戦期までは社会主義に対抗するために資本主義を「修正」して所得を再分配する「リベラリズム」が政治・経済の主流だった。
しかし1980年代に社会主義が崩壊する一方、福祉国家が財政的に破綻し、「小さな政府」に向かう後期近代に入った。これにともなう社会の<私>への分解を批判したのがコミュニタリアニズムである。他方、日本では、伝統的な共同体が会社に横滑りする形で近代化が進行したため、公的な福祉支出は小さく、会社が個人を守り、彼らの人生に意味を与える役割を果たしていた。
この擬似近代化は経済的には成功したが、そこには<私たち>のデモクラシーがないため、90年代以降の長期不況で会社共同体が崩壊すると、人々は所得だけではなく人生の意味を見失い、自殺が激増した。求心力を国家に求める人々は「ネット右翼」のような形で若い世代にも出現したが、彼らは遺族会や右翼団体などの自民党の伝統的な支持基盤とは違う<私>の集合体なので、派手な言説の割には政治的な力は弱い。
自民党政権の崩壊は、この意味では歴史の必然というより遅すぎたのだが、それに代わって登場した民主党政権は、こうした変化をまったく理解せず、前期近代の遺物にすぎない社民的イデオロギーや労働組合に依拠して所得移転を行なおうとして政策が破綻してしまった。この閉塞状況を脱却するには、会社への幻想を捨て、<私>が新たに集まるアゴラを創造するしかない。
しかし、もともと人工的な中間集団の伝統がない日本では、NPOなどの「新しい公共」はお遊びにしかならない。ネット上の言論が出発点になるかもしれないが、新たなアゴラの形成は、はるかな未来の希望にとどまる。本書もこうした問題を指摘しているだけで、新たなアゴラを示しているわけではないが、それを批判するのは酷だろう。そんな答を見出した人は、まだ世界のどこにもいないのだから。