政治的人間とは:江藤淳「海舟余波-わが読史余滴」を読み返して - 矢澤豊

2010年05月13日 02:42

いま私は、時代は崩れ、人は死んで行く、それが「歴史」だ、といえるような気がしはじめている。いうまでもなくこの認識は、私たちが時代を建設しながら「未来」のために生きる、と信じることを少しも妨げはしない。しかし建設は同時に必ずなにものかを崩し、この崩壊は知らぬ間に私たちの足場を奪って行く。そしてなにかのために生きていると信じながら、私たちはもっと深いところでいったいなんのために生きているのかを問いつづけ、模索しつづけるのである。」(プロローグから)


日本の一時代が終わりを告げようとし、新しい時代がすでにどこかではじまっているこの時機、特に政界・官界に身をおく人たちは、幕臣・勝海舟の生き様に大いに学ぶところがあると思います。

江藤淳氏は、この「海舟余波」と、これに対となる西郷隆盛をとりあげた「南州残影」において、

「失敗という結果が許されない」

「結果に責任を持たなければならない」

という宿命を負った政治的人間の典型として、勝と西郷を対比させています。(もっとも両作品の発表は、四半世紀以上はなれています。)

勝は自らが属する「徳川幕府」という組織と時代の死に水をとるにあたって、冷徹なまでにブレることがありませんでした。

「大政奉還」という捨て身の奇策に打って出た幕府勢力に対し、あくまでも軍事クーデターによる徳川家の滅亡と政権奪回にこだわった薩長勢力が、「王政復古」のスローガンの下に対決姿勢をかためていた「鳥羽伏見の戦」の直前、勝は彼を「薩長のシンパ」とみなす幕府高官連により、政権運営の第一線を外されます。

勝は

「 天下の大権は、私に帰せずして、公に帰するやせり 」

という書き出しで有名な「憤言一書」を提出し、 徳川家の存続と、それに寄生した自分たちの地位の保全に汲々とした同僚・幕臣どもに、痛烈な批判を浴びせています。

また、鳥羽伏見で錦の布切れ一枚に腰を抜かしてしまい、将兵を大阪に置き去りにしたまま逃げ戻ってきた慶喜に幕引きを一任された後、薩長・新政府軍あてた書簡でも再び、

「口に勤王を唱うといえども、大私を挟み、皇国土崩、万民塗炭に陥ゆるを察せず」

と、手厳しく糾弾しています。

この書簡の送付に前後した勝の大車輪の活躍により、有名な高輪薩摩藩邸における勝・西郷の会談となり、江戸城無血開城となるわけです。

その後、政治の表舞台からは去りはしても、明治32年に亡くなるまで、旧幕臣中の重鎮として重きをなし、相次ぐ士族の乱の勃発にあっても付和雷同を戒め、明治日本の目指すところを見誤ることはありませんでした。

かくして「政治的人間」勝海舟は、みずからを育んだ徳川幕府という時代と組織が、音を立てて崩れ落ちて行く中、見事なまでにその歴史的使命を全うしたのです。

しかしその道は決して華々しいものではありませんでした。その先見性と人となりからすれば、もしも万が一、新政府内で活躍の場と機会が与えられることがあれば、相当以上の活躍をしたでしょう。しかし、ついにそのような機会は訪れませんでした。本人も、

「オレを真田幸村などと比べてくれるな。自分では幸村などよりは数等マシな人間だと思っている。」

などとうそぶき、日清戦争の折の下関講和交渉においては、

「李鴻章にかなうのはオレぐらいなものだ」

などといって、大いにやる気をみせていましたが、実際にその任にあたったのは、勝の神戸海軍操練所のメンバーであった陸奥宗光でした。

一方の西郷は、あくまでも理想を追い求める革命家であり、西南戦争の果ての非業の死は、ある意味「宿命」であったともいえます。政治家として失敗した西郷の生き様は、しかし日本人の心に訴えるところが大きく、当の勝海舟自身が、自ら作った薩摩琵琶歌「城山」で、西郷の死を悼んでいます。その歌詞は、自らには禁じられた「英雄の死」を全うした、かつての好敵手であり畏友である人間への敬意と憧憬、そして少なからぬ羨望の発露のように聞こえます。

我慢と忍従の人生を強いられ、自ら

「維新の頃には、妻子までもおれに不平だったヨ。広い天下におれに賛成するものは一人もなかった... 。」

などという四面楚歌を経験し、やっと一息、と思った最晩年には、かつては幕臣同士であった福沢諭吉が「やせ我慢の説」でその出処進退を非難する。 勝はこれに答えて「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」と、自らの大器を示しましたが、いいかげん「なにをいまさら...」という気持ちではなかったでしょうか。

こうしたプレッシャーにさらされ、時代の切所では、自らのアイデンティティーを保持する一切のものが崩壊して行く中で、いったい何が勝海舟という人間を支えていたのでしょう。

この問いに対する江藤氏の解答に私なりの解釈を加えれば、それは「ヴィジョン」というべきものだと思います。勝には、日本が自らの古い殻を突き破る必要性と、日本のあるべき姿、目指すべき方向というものが、終世見えていたのだと思います。

「民をかえりみず勤皇だ佐幕だなんだって、ソリャあべこべのはなしサ。」

と、時代の争点から一つ高い場所に立った観点を常にもちつづけていたことが、勝の「うたれ強さ」につながっていったのではないでしょうか。

江藤氏は、この勝のヴィジョンの原体験を、小説「親子鷹」の題材にもなった父・小吉との関係と、咸臨丸船上の情景にもとめています。

咸臨丸による太平洋横断において、勝の上役であった提督、木村摂津守の証言によると、

「(勝は航海中、艦長とはいえ、身分格式のため不自由をしていて、)それが第一不平で、八つ当たり(...)太平洋の真中で、己はこれから帰るから、バッテーラ(ポルトガル語でボートの意)をおろしてくれなどと水夫に命じた...。」

まだ幕末の風雲急を告げるにいたっていない、咸臨丸船上の様子を、付き添いで乗船していたアメリカ海軍のブルック大尉は、その日記で次のように描写しています。

「2月20日...今日私は水夫と士官の当直を割り当て、部署を決めるように提案した。しかし予期しなかった困難にぶつかった。尉官級の六人の士官のうち、何人かは職務に全く無智である。提督は能力のある者を当直につけたがらない。つまり彼らが無能な者ほど身分が高くないからというのである。結局、提督は誰にも部署、当直を割当てず、元のままにしておくことを望んでいるのだ。提督自身も船舶運用に関して何一つ知っていない。彼は私が船を動かすことができるから安心だと思っている。それで万事変わりなしということになった。...」

「オレたちの国はこのままじゃいけないのだ」

という、切実な愛国心に裏打ちされた、焦燥感と責任感が、勝という一政治家に一つの「ヴィジョン」を授けたことは、日本にとっては大いに幸いなことだったといえるでしょう。

それにしてもアメリカ人海軍士官の目に映った、幕末の咸臨丸船上の様子と、現在の日本の政界の状況が、あまりにも酷似しているのは、皮肉をとおり越して、うすら寒い思いがします。「乗数効果を知らない」と揶揄された財務大臣。知名度だけで選挙に担ぎだされたタレント候補。 いまさら安全保障政策を「学んでいる」身分格式はご立派な総理大臣閣下。この国はこの150年間、いったいなにを学んできたのでしょうか。

海舟余波―わが読史余滴 (1974年)海舟余波―わが読史余滴 (1974年)
著者:江藤 淳
販売元:文芸春秋
発売日:1974
クチコミを見る

これが江藤氏38才の時の作とは...。

オマケ
勝海舟作 薩摩琵琶歌「城山」抜粋

「それ達人は大観す。抜山蓋世の勇あるも、栄枯は夢かまぼろしか、大隈山かりくらに、真如の影清く、無念無想を観ずらむ。何をいかるやいかり猪の、俄に激する数千騎、いさみにいさむはやり雄の、騎虎の勢い一徹に、とどまり難きぞ是非もなき、唯身ひとつをうち捨てて、若殿原に報いなむ。明治ととせの秋の末、諸手の軍打ち破れ、討ちつ討たれつやがて散る、霜の紅葉の紅の、血潮に染めど顧みぬ、薩摩たけ雄のおたけびに、うち散る弾は板屋うつ、あられたばしる如くにて、おもてを向けんかたぞなき。木だまに響くときの声、百の雷一時に、落つるが如きありさまを。隆盛うち見てほほぞ笑み、あないさましの人々やな、亥の年以来やしないし、腕の力もためし見て、心に残ることもなし。いざもろともに塵の世を、のがれ出でむは此の時と、唯ひとことなごりにて、桐野村田をはじめとし、むねとのやからもろともに、煙と消えしますら雄の心のうちこそいさましけれ。官軍之を望み見て、きのうまでは陸軍大将とあふがれ、君の寵遇世の覚え、たぐひなかりし英雄も、けふはあへなく岩崎の、山下露と消え果てて、うつればかわる世の中の、無量の思い胸にみち、唯蕭然と隊伍を整へ、目と目を合わすばかりなり。折りしもあれや吹きおろす、城山松の夕嵐、岩間に咽ぶ谷水の、非情の色もなんとなく、悲鳴するかと聞きなされ、戎衣の袖もいかに濡らすらむ」

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑