参議院選挙も終り、予算編成の季節である。従来から政府予算の無駄の削減が叫ばれており、それが消費税導入の前提とされてきている。しかし、そもそも政府財政の規模としてどの程度が適切であるかということが決まっていなければ、何がバラマキであり何が無駄であるのかということを議論することは難しい。
日本の消費税は1989年に税率3%でスタートし、1997年に5%とされた。いずれの時期にも歳出は増加を続けており、1998年には公債発行は急増した。歴史的に、消費税の導入・増税は歳出の増加を背景として行われていて財政規律との間には相関関係が見られず、「増税の前にやることがあるだろう」ということは経験的に当を得ている。
日本の消費税は1989年に税率3%でスタートし、1997年に5%とされた。いずれの時期にも歳出は増加を続けており、1998年には公債発行は急増した。歴史的に、消費税の導入・増税は歳出の増加を背景として行われていて財政規律との間には相関関係が見られず、「増税の前にやることがあるだろう」ということは経験的に当を得ている。
財政法の第4条第1項で「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない」とあるように、本来、公債の発行は禁止されている。「但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」とあり、この建設国債といわれるものは例外的に認められている。しかし、経常的経費の不足をまかなうための赤字国債はこの財政法の例外にはあたらず、そのために1975年度から特例公債として「財政運営のための公債の発行の特例等に関する法律」を年度毎に立法して公債を発行してきている。ただし、1991〜1993年度には赤字国債は発行していない。国の財政収支という点では、その前の1988年度〜1991年度は比較的堅調な時期であったが、その後は税収が減る中で歳出がふえるという基調が続いている。(以後、国債と公債の用語について、法による場合や財務省が数字を発表している場合にはその用語を用いることにする。)
公債残高は1993年度の193兆円から2010年度の637兆円と急増しているが、その中では小泉内閣の2005年度(31兆円)から2007年度(25兆円)では公債発行額を連続的に減らしており、それを続けていれば2010年度は20兆円程度になる趨勢であった。しかし、2008年度から税収が急減する中で2009年度の補正予算で歳出を急増させ、公債発行額は2009年度の54兆円、2010年度の44兆円と麻生・鳩山内閣で財政規律を著しく失っている。2010年度の一般会計歳出総額予算の92.3兆円において、国債の元利償還支出である国債費は20.6兆円(22.4%)であり、社会保障関係費の27.3兆円(29.5%)に迫るレベルである。リーマン・ショックによるパニック的な状況が一段落ついた段階で、公債発行額を上記傾向の20兆円以下にするというような意思を見せなければ内閣として増税の話を出す資格はないであろう。先日の参議院選挙における民主党敗北の主要な原因は、国民がこの規律について(家計であれば当然の)健全な感覚をもっているためであると思われる(自民党が政権にあったとしても同様であったであろう)。
上記の財政法は支出の規模については中立的であって、支出が税収に見合うことを定めているだけであり、国民が政府の支出レベルを高くすることを求めているとすれば、高い税収によるということを述べているだけである。歴史的に見ていかなる政府も財政の破綻は国債の濫発によるが、それは(国民が納得しない支出(軍事等)を行っていたのでなければ)国民に迎合するための支出が税収よりも多かったためである。財政規律を失う本質とは、支出を増大させること(選挙におけるバラマキ的な公約)とそのための収入を得ることとが一致していないことにあり(一致していれば高支出=高税はどこかで国民の意向により歯止めがかかるからである)、そのために支出について国民に不人気(または不可能)な増税を避けて国債によるということにある。これは、政府の税収に応じて支出を決めるという機会が事実上、国民に与えられていないということであり、議会制民主主義の重要な点でそれが適切に機能していないということであるといえる。
上記の「増税の前にやるべきこと」について、従来のように支出と収入とを切り離して行っている限り、効果的な案は見あたらない。そこで、ここでは以下のような提案を行いたい。次年度予算から公債特例法を立法せず(建設国債を含めて国債を発行しない)、(国債費を含めた)予算規模を税収に合わせること、そして重要なことは収入=支出のレベルを国民の意向が反映するようなプロセスにするということである。
国債の発行をやめるだけであれば財政規模はほぼ半減するので、当然、そのような範囲でできるわけがないという大合唱が起きる。これに対しては、従来の税収内では支出が収まらないと主張する側は、その財源をどのようにするか、すなわち具体的な増税策を示す責任がある。本来、財政原則を越えようとする側にそのことの正当性を示す責任があるのであって、従来レベルを削減する側にその責任があるのではない。従来、このような収入・支出バランスによらずに予算が編成されてきたのは、それを利益とする既得権益構造(これはいわば「政府によって他人の金を自らのものとする」構造である)があるからである。
この収入・支出バランスについて、予算案を提出する内閣がどうまとめるかということになる。その支出が必要であるということであれば、内閣は予算案と共にその増税策の案を国会に提出しなければならない。従来とさして変わらない予算規模であれば、税収をほぼ倍とする大幅な増税策を伴わざるをえないであろう。この方式の利点は、財政の収入・支出バランスの構造を国民の前具体的に見せて議論することであり、従来の政治が「政府が配る−国民が貰う」という面しかいわなかったことに対して、例えば、民主党の子供手当や農家の個別所得補償がバラマキか否かというような議論は、それらを「国民が払う−国民が受ける」という図式において具体的にいかなる手段によって実現するのかという払う側の問題として行うことになる。
国会の重要な任務は、このような収入・支出バランスについて検討して選択肢を用意することである。麻生・鳩山内閣の支出レベルであれば、民主党も自民党も大増税をいうことになるであろうが、それに対して増税をせずに従来どおりの税収の範囲内で支出をすればよいという政党も出てくるであろう。従来の増税否定論は国債発行を前提としているが、国債を前提にできなければ、ここではじめて具体的に各政党による大きな政府から小さな政府までのスペクトルが示されることになる。国民は、このうち、自分たち自身の支払=受取のバランスをいかなるレベルに設定するかを選択することになる。選挙においてこのような政策=予算の選択ができるようになれば、それは民主主義的なプロセスにとって大きな前進である。
上記の財政法の例外の特例法は国会で年度毎に可決しなければならず、予算案そのものではないことから参議院で否決された場合に衆議院の議決が優先する(憲法第59条、第60条)ことにはならない。従って、この法案に対して参議院が反対すれば、衆議院で与党が三分の二以上の多数によってそれを覆さなければ、政府は国債によらずに予算編成をしなければならない。この議決は、国の財政に関して各政党が国民に真に責任を果そうとしているかどうかを見ることができる試金石になるであろう。このような意味で、衆参ねじれ現象はうまく使えば民主主義の実現にとってはまんざら悪くはなさそうである。
ここで提案していることは、政府が行うことを国民が選択することができるためのプロセスである。我々にとって望ましいと思われる選択肢がないのであれば、選挙制度があっても民主主義は適切に機能しないが(政治的無関心層の少なからぬ存在がそれを示している)、必要な選択肢が政治家から出てこないのであれば、彼らがそのように取り組まなければならないような枠組設定を我々が提示する必要がある。国民が収入・支出の規模を選択するということは、政府の役割、国民との関係をどうするのかということにつながる。従来は政府の財政規模が大きく、また国民の経済を規制しているために、経済について政府に頼るという傾向が強いが、もし政府の規模と規制を小さくすれば(減らした分が事実上の財政出動にあたる)それだけで民間の活力を回復することになる。
政府の予算を査定することは行政機関の役割とパフォーマンスを評価することであり、本来、政策立案(立法)と並ぶ国会の任務である。衆議院(480人)、参議院(242人)ともにそのような能力をもつ議員数はその1/6を優に下回っており、今後、定数をそこまで削減しても国会の機能が低下することはなく、むしろ質の向上が期待できよう。国会が行政の役割自体を見直し、機能を限定していくには、国会の各委員会が法令の施行実態をよく知る民間人を入れて行わなければならない。
私自身は団塊世代に属しているが、現役時代に仕事にかまけていたうちに、今や子供たちから「お父さんたちがしっかりしていなかったから、自分たちがそのツケを払うことになる」といわれる。これを「世代責任」というとすれば、我々の世代にはこのような事態を打開する責任があるのではないかと思うのであり、また適当なキッカケさえあれば何かしらできるのではないかという期待ももつのである。
平井 進
(元:ソニー(株)通商輸出管理部長 現:東北大学大学院)
公債残高は1993年度の193兆円から2010年度の637兆円と急増しているが、その中では小泉内閣の2005年度(31兆円)から2007年度(25兆円)では公債発行額を連続的に減らしており、それを続けていれば2010年度は20兆円程度になる趨勢であった。しかし、2008年度から税収が急減する中で2009年度の補正予算で歳出を急増させ、公債発行額は2009年度の54兆円、2010年度の44兆円と麻生・鳩山内閣で財政規律を著しく失っている。2010年度の一般会計歳出総額予算の92.3兆円において、国債の元利償還支出である国債費は20.6兆円(22.4%)であり、社会保障関係費の27.3兆円(29.5%)に迫るレベルである。リーマン・ショックによるパニック的な状況が一段落ついた段階で、公債発行額を上記傾向の20兆円以下にするというような意思を見せなければ内閣として増税の話を出す資格はないであろう。先日の参議院選挙における民主党敗北の主要な原因は、国民がこの規律について(家計であれば当然の)健全な感覚をもっているためであると思われる(自民党が政権にあったとしても同様であったであろう)。
上記の財政法は支出の規模については中立的であって、支出が税収に見合うことを定めているだけであり、国民が政府の支出レベルを高くすることを求めているとすれば、高い税収によるということを述べているだけである。歴史的に見ていかなる政府も財政の破綻は国債の濫発によるが、それは(国民が納得しない支出(軍事等)を行っていたのでなければ)国民に迎合するための支出が税収よりも多かったためである。財政規律を失う本質とは、支出を増大させること(選挙におけるバラマキ的な公約)とそのための収入を得ることとが一致していないことにあり(一致していれば高支出=高税はどこかで国民の意向により歯止めがかかるからである)、そのために支出について国民に不人気(または不可能)な増税を避けて国債によるということにある。これは、政府の税収に応じて支出を決めるという機会が事実上、国民に与えられていないということであり、議会制民主主義の重要な点でそれが適切に機能していないということであるといえる。
上記の「増税の前にやるべきこと」について、従来のように支出と収入とを切り離して行っている限り、効果的な案は見あたらない。そこで、ここでは以下のような提案を行いたい。次年度予算から公債特例法を立法せず(建設国債を含めて国債を発行しない)、(国債費を含めた)予算規模を税収に合わせること、そして重要なことは収入=支出のレベルを国民の意向が反映するようなプロセスにするということである。
国債の発行をやめるだけであれば財政規模はほぼ半減するので、当然、そのような範囲でできるわけがないという大合唱が起きる。これに対しては、従来の税収内では支出が収まらないと主張する側は、その財源をどのようにするか、すなわち具体的な増税策を示す責任がある。本来、財政原則を越えようとする側にそのことの正当性を示す責任があるのであって、従来レベルを削減する側にその責任があるのではない。従来、このような収入・支出バランスによらずに予算が編成されてきたのは、それを利益とする既得権益構造(これはいわば「政府によって他人の金を自らのものとする」構造である)があるからである。
この収入・支出バランスについて、予算案を提出する内閣がどうまとめるかということになる。その支出が必要であるということであれば、内閣は予算案と共にその増税策の案を国会に提出しなければならない。従来とさして変わらない予算規模であれば、税収をほぼ倍とする大幅な増税策を伴わざるをえないであろう。この方式の利点は、財政の収入・支出バランスの構造を国民の前具体的に見せて議論することであり、従来の政治が「政府が配る−国民が貰う」という面しかいわなかったことに対して、例えば、民主党の子供手当や農家の個別所得補償がバラマキか否かというような議論は、それらを「国民が払う−国民が受ける」という図式において具体的にいかなる手段によって実現するのかという払う側の問題として行うことになる。
国会の重要な任務は、このような収入・支出バランスについて検討して選択肢を用意することである。麻生・鳩山内閣の支出レベルであれば、民主党も自民党も大増税をいうことになるであろうが、それに対して増税をせずに従来どおりの税収の範囲内で支出をすればよいという政党も出てくるであろう。従来の増税否定論は国債発行を前提としているが、国債を前提にできなければ、ここではじめて具体的に各政党による大きな政府から小さな政府までのスペクトルが示されることになる。国民は、このうち、自分たち自身の支払=受取のバランスをいかなるレベルに設定するかを選択することになる。選挙においてこのような政策=予算の選択ができるようになれば、それは民主主義的なプロセスにとって大きな前進である。
上記の財政法の例外の特例法は国会で年度毎に可決しなければならず、予算案そのものではないことから参議院で否決された場合に衆議院の議決が優先する(憲法第59条、第60条)ことにはならない。従って、この法案に対して参議院が反対すれば、衆議院で与党が三分の二以上の多数によってそれを覆さなければ、政府は国債によらずに予算編成をしなければならない。この議決は、国の財政に関して各政党が国民に真に責任を果そうとしているかどうかを見ることができる試金石になるであろう。このような意味で、衆参ねじれ現象はうまく使えば民主主義の実現にとってはまんざら悪くはなさそうである。
ここで提案していることは、政府が行うことを国民が選択することができるためのプロセスである。我々にとって望ましいと思われる選択肢がないのであれば、選挙制度があっても民主主義は適切に機能しないが(政治的無関心層の少なからぬ存在がそれを示している)、必要な選択肢が政治家から出てこないのであれば、彼らがそのように取り組まなければならないような枠組設定を我々が提示する必要がある。国民が収入・支出の規模を選択するということは、政府の役割、国民との関係をどうするのかということにつながる。従来は政府の財政規模が大きく、また国民の経済を規制しているために、経済について政府に頼るという傾向が強いが、もし政府の規模と規制を小さくすれば(減らした分が事実上の財政出動にあたる)それだけで民間の活力を回復することになる。
政府の予算を査定することは行政機関の役割とパフォーマンスを評価することであり、本来、政策立案(立法)と並ぶ国会の任務である。衆議院(480人)、参議院(242人)ともにそのような能力をもつ議員数はその1/6を優に下回っており、今後、定数をそこまで削減しても国会の機能が低下することはなく、むしろ質の向上が期待できよう。国会が行政の役割自体を見直し、機能を限定していくには、国会の各委員会が法令の施行実態をよく知る民間人を入れて行わなければならない。
私自身は団塊世代に属しているが、現役時代に仕事にかまけていたうちに、今や子供たちから「お父さんたちがしっかりしていなかったから、自分たちがそのツケを払うことになる」といわれる。これを「世代責任」というとすれば、我々の世代にはこのような事態を打開する責任があるのではないかと思うのであり、また適当なキッカケさえあれば何かしらできるのではないかという期待ももつのである。
平井 進
(元:ソニー(株)通商輸出管理部長 現:東北大学大学院)


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