教育改革は可能か? - 松本徹三

2010年08月09日 10:00

私は現在東京の都心に住んでいますが、或る日、近所のお好み焼屋さんのカウンター席に座っていたら、隣に座っていた母親とその息子さんらしい二人連れと、その店の店主との話が、聞くともなく耳に入ってきました。


小学校三年生の息子さんがいるらしい店主が、「そろそろ周りは受験モードになってきました。ウチはソロバンと公文に通わせていますが、当面はそれでいいですよね」と客の二人連れに聞くと、「まあ今はそれでいいでしょうけど、来年からはちゃんとした塾を選んだ方がいいですよ。英語は新宿のどこそこ、算数は渋谷のどこそこ」と、親子で異口同音に、確信を持って力説していました。どうやら、それらの名門塾の教え方が、「それぞれの分野で断トツに優れている」ことは、その界隈に住んでいる教育熱心な家庭の親御さんの間では、常識になっているらしいのです。

私は少しぶったまげて、数日後にその話をある大学関係者に話し、「中学受験も結局は将来の大学受験の為でしょう? もうそろそろ大学受験のやり方を変えるべきじゃあないのですか?」と水を向けたところ、その人が苦々しげに言ったのは、「大学受験が今でも大変なのは、本当のトップ校だけですよ。今や、中堅どころの私立大学は受験生の減少に青息吐息で、学力など問題にする余裕はありませんよ」という事でした。

しかし、そのトップ校の卒業生と雖も、彼等が就職した企業側では、その学力には殆ど何の期待もかけていません。「仕事は身体で覚えろ」とばかり、現場で一から鍛えようとするのが普通です。諸外国なら、職に就いたその日から期待されてもおかしくないような一流大学卒の新入社員にも、当の大企業は使い走りのような仕事しかさせず、取引先の外国人を驚かせているのが実情のようです。

私がたまたま遭遇した最近の小さなエピソードから話を始めましたが、現在、多くの人達が「日本の教育体制は何だかやっぱり少し変だ」と考えているのは間違いないように思えます。そして、それが、最近の日本の諸々の社会問題や、新興の発展途上国に対する競争力減退の原因であると考えている人達も、次第に多くなっているように思えます。

しかし、「一時期の『ゆとり教育』が批判され、最近は元の姿に戻った」ということを別にすると、ずっと以前から今日に至るまで、「教育のあり方に抜本的にメスを入れる」といった話を耳にすることは全くありませんでしたし、「具体的な改革案がある」等という話も聞いたことがありません。このままでは、今後とも何も起こらないのでしょう。

教育問題に関しては、「日教組 対 反日教組」というのが、これまでずっと続いてきた一つの対立の図式なのですが、「反日教組」の動きは、概ね「右派的な心情」と一体化する傾向があり、「教育問題を未だに『左右の対立軸』で語っている現状」に辟易しているのは、私だけではないと思います。

こと教育問題になると、色々な人達が色々な考えを持っており、それぞれに自らの持論を熱心に展開することが多いのですが、全てが「言いっ放し」で終わっている感があり、「総合的な教育のグランドデザイン」が、輻輳する現実を踏まえて俯瞰的に語られるには、全く程遠いように感じられます。

私自身も、古今東西の「教育学」や、現在の文部科学省の「基本方針」なるもの(もしそういうものがあるのなら)を体系的に学んでみたいと、ひそかかに考えたことは過去に何度かあるのですが、全体があまりに漠としていて、何処から考え始めればよいのかも分からず、その手掛りになるような情報も、日常殆ど耳にすることがありませんでした。

実業の世界に身を置く現在の立場からは、「大学教育の充実」と「小中学生時代から始めるべきインターネット教育」については、言いたいことが多々あり、現実に、時折、一言二言意見を言わせて頂いていることもあるのですが、そういう事だけを言っていると、「あんたは、教育というものをそんな実利的な面だけから考えているのか」というご批判を受けそうなので、それも気がひけます。

そもそも、現在の日本において、「教育」の目的とは何なのでしょうか? 

明治維新に際しては、「教育勅語」の形でそれが明確にされました。「富国強兵」とか「和魂洋才」とかいった「分かりやすいスローガン」にも、事欠きませんでした。しかし、現在は、国民の価値観は分裂しており、教育現場には「何をどう教えればよいのか」についての明確な指針は存在していないのではないかとも思います。

学習塾の先生やスポーツクラブのコーチ、宗教団体のリーダー等の場合は、目的がはっきりしているのですから随分と気が楽でしょうが、一般の学校の先生方は、真面目な方であればある程、「指針の不在」故の悩みは深いのではないかと思います。

教育問題については基礎的な知識すら持っていない身も省みず、ここでいきなり結論じみたことを言うのはいささか気が引けますが、この際、勇を振るって言わして頂くなら、国が考えるべき「教育」の目的は、つまるところ下記の三つではなかろうかと、私自身は思っています。

1)国民の全てが、健全な肉体と豊かな心を持ち、幸せな一生を送れるようにすること。
2)国民の全てが、健全な社会(国家)の良き構成員となること。
3)国民の全てが、国際的な経済活動の中で競争力をもち、豊かな生活が送れる能力を身につけること。

この3項目の中では、1)が、やはり最も難しい問題でしょう。これに比べれば、3)等は、現状は問題だらけであっても、やる気になればすぐに結果を出せる「比較的簡単な問題」だと言えるでしょう。

特に私の場合は、実業の世界の事は分かっていても、教育学や心理学の基礎がありませんから、3)については色々言える事があっても、1)については、何をどうすればよいのか、皆目見当もつきません。尤も、人間は、経済的にも自立出来なければ「不幸になる確率」が高くなるので、3)は1)の為にも必要であるとは言えるでしょうから、全く役に立たないというわけでもないでしょう。

2)については、「国民主権」の現体制下においては、教育を受ける者は、単に「既に確立された社会的な規範を守る」という事だけでなく、「どのような社会規範を作るべきかを考える」事も当然求められているわけです。この様に考えると、この項目も、極めて難しい多くの問題を含んでいることが分かります。

この様な観点から、初等教育から高等教育に至る全てを俯瞰し、「現在の日本の教育体制のグランドデザインは如何あるべきか」を考えることは、哲学思想の観点からも、実務的な観点からも、極めて大きな知的チャレンジであり、現状はその入り口にさえ立てていないような気がします。

しかし、現在の情況を、仮に明治維新当時の情況と比べてみるとどうでしょうか? 江戸時代の末期に、突然桁違いに進んだ西欧諸国の状況を見聞し、それを支えている学術・文化に直面した時の困難と比較すれば、我々が今直面している問題などは、実は取るに足らないほど矮小であると言えるのではないでしょうか?

「個々の人間が学ぶべきこと」、言い換えれば「国の教育制度が与えなければならないもの」は、今は全て見えているのであり、問題は、「如何にそれを公正に且つ効率的に行うか」という方法論に過ぎないからです。

さて、近代国家が先ず行わなければならないことは、「全ての国民が、その能力と意欲に応じて、等しく『効率的な教育』を受けられることを可能にする」ことであるという事には、誰も異論はないでしょうが、ここで重要なことは、『効率的な教育』ということです。効率が悪ければ、同じレベルの能力と意欲を持った人間が同じ様に時間をかけても、得られる結果は甚だしく劣ったものになってしまうからです。

これまでは、この効率を左右するものは、先ずは「教員の質(誰に師事したか)」であり、次に、「入手・読解が可能な文献の質量」でした。しかし、現在は、これに加えて、いやそれ以上に、「コンピュータ(インターネット)リテラシー」が重要になってきています。

現在、世界中のあらゆるところで、また、あらゆる分野で、「学ぶべきこと」「学べること」の質と量は、日々幾何学級数的に拡大しつつあります。しかし、その一方で、「必要な情報を見つけ出し、それを咀嚼すること」「異なった考えをもつ多くの人達と緊密にコミュニケートし、共通点と相違点を理解すること」を助けるシステムも、あらゆる分野で日々拡充しつつあります。

と言うことは、これから我々が行うべきことは、下記の様に、比較的単純明快であることを意味します。私の考えでは、それは下記の三つに要約され、この三つが達成されれば、これによって「よりよい教育体制が整った」と言えると思うのです。

1)それぞれの人が、その「年齢」と「興味(意欲)の対象」に従って、「何を学ぶか」を明確にすること(選択)。
2)あらゆる技術を駆使して、その学習方法を極限まで効率化すること(効率化)。
3)考え方の相違とは関係なく、多くの人達の間でのコミュニケーションが活発に行われること(交流)。

私は、職業柄、「全国民のコンピューターリテラシーを、短期間のうちに、現在のレベルより格段に高くしていくことの必要性」や、「それを可能とするコンピュータ(インターネット)教育の必要性」を常に力説していますが、それは、上記の1)-3)が、それをベースとして実現することに期待をかけているからこそです。

そして、その為には、情報通信インフラ(今話題になっている「光の道」も、その重要な構成要素の一つ)や、データベースの整備が必要なことも、ここを先途と、私は併せて力説しています。こういった「インフラ整備」に類する問題は、一旦国がその意志を固めたら、後は一瀉千里に走ればよいだけのことであり、教育を巡る「他のもっと複雑な問題」に比べれば、はるかに実現が容易だと考えているからです。兎に角、やれることからやっていかねば、何も前に進みません。

しかし、善きにつけ悪しきにつけ、このような個々の構成要素だけが、本質的な問題から切り離されて取り上げられるのは、勿論、「本来あるべき健全な議論」からは程遠いものです。従って、私等が特に強い関心を持ち、「語るに足る識見を持っている」と自負している「技術的側面についての議論」も、常に「全体像を念頭においた議論の一部」として受け止めて欲しいと、強く願っている次第です。

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