必要悪としての国家

2011年01月27日 15:10

戦後の65年とは、一体如何なる時代であったのだろうか。科学文明が頂点を極め、物的には随分と豊かに成り、経済規模も随分と膨れ上がった事は事実だろう。

今一つの特徴は、此処20年に及ぶ経済の停滞と、デジタルの台頭に拠る生活の変化であろう。私の様な物でも、従来同様日本国民としての私が存在すると同時に、アゴラに投稿する事で、顔と名前が少しは認知された。国家の関与しない所に、今一人の自分が誕生した訳である。

「失われた20年」と言うのは、言い尽くされた言葉である。問題は、この先更に何年が失われ、我々が職を求め、街を漂流する若者を何時まで見続けるのかと言う事である。

最近IMF発表の今年度経済予測観たが、中国と中国に雁行する新興産業国の成長は際立って良い。反対に、EUと日本はまるで駄目だ。

何事も上手く行かない時、非難の矢面に立たされるのは政府である。確かに、菅首相や側近の顔ぶれ見れば納得する。唯、本当に政府と政治の責任だけなのか。

ここらで、一度立ち止まり、戦後日本を成功に導いた、日本の国の形に就いて考えるべきでは無いだろうか。企業を、国民を、成功に、幸せに導いた国が、最早、何の役にも立たず、成長のブレーキに成り果てて居るのでは無いか、と言う疑問に就いてである。

政府は社会保障を理由に、増税を考えているらしい。良い機会では無いか。

増税で予想されるのは、更なる行政の肥大化と、此れに伴う、財政支出の増加である。増税分等、あっと言う間に食い尽くされる筈である。当然、更なる増税路線に舵切る事に成る。景気も悪く成る。不況に突入するかも知れない。

増税を無理やり決めたとしても、実行の段階まで現政府が持つとはとても思えない。此の辺り、国際的投機筋に狙い撃ちにされ、国債価格の暴落とか有り得る話では無いか。

どうも2011年は、国が許容可能な必要悪から、許容出来ない必要悪に転換する分水嶺に成るのではと考えて居る。その当事者が菅内閣と言うのは何とも歴史の皮肉である。

個人が国民であると同時に、ネットの中の私人に成ろうとする今日、悪でしか無い国の機能を大胆に縮小してはどうだろうか。

その為の第一歩は、地方分権である。当然の事であるが、此れに伴い、公務員改革を中核とする、行政改革を断行し、財政支出を抜本的に削減する事に成る。

次いで、社会保障に大鉈を振るう事である。来たるべき、日本の超高齢者社会に、対応可能な社会保障制度等、若者の犠牲無にはあり得ない。そして、最もやっては成らない事は若者を犠牲にする事である。

最後は国民の自覚である。常に国に依存する、国民の国依存症こそが、国を結果必要悪にしている元凶である。此の機会に国民は経済的にも、精神的にも、国から自立する必要があると思う。

政治がお粗末なのは事実である。しかし、謙虚に考えれば、政治は国民の実態を映す鏡でしか無い。政治を詰る事は暫し休み、国民こそが自己改革すべきでは無いだろうか。そうしないと、国の劣化は朽ち果てる迄止まらない。

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