リビアでのカダフィ大佐率いる政府軍とデモ隊の衝突はますます激しくなっているようだ。政府軍やリビア政府に雇われた傭兵は、非武装の市民に容赦なく銃口を向け次々と虐殺している。ネット上では無残に殺されたリビア市民の死体の画像が多数アップロードされている。その中には年端の行かない子供の殺害まで含まれている。これはただ単に独裁者であるカダフィ大佐やその一味の残虐な行為として片付けることができるのだろうか? 筆者はそうは思わない。なぜなら同じような状況になれば、やはり多くの人間がカダフィ大佐のように振舞うと思うからだ。
独裁者の多くがその権力を握る過程で、多くの政敵を処刑する。裏切り者を残虐な方法で殺害して、自らの力を民衆に魅せつける。その一方で独裁者はカリスマ的で人間的にも非常に魅力的な人物であることが多い。その魅力と恐怖によって人の上に立つのである。血塗られた独裁者と英雄は紙一重だ。歴史上の英雄と云われる多くの人物も、多かれ少なかれこのようなことをして人々を従わせたのだ。非常に不謹慎かもしれないが、筆者はカダフィ大佐が先進国に生まれ、ふつうに就職していたとしたら、多国籍企業を率いるカリスマ的なCEOに上り詰めていたと思う。
都合の悪い政敵を殺してきたということは、それはちょったしたパワー・バランスが崩れれば自らも誰かに殺されるというリスクを常に背負うことを意味する。このように民衆が蜂起し荒れ狂っていたら、独裁者は死を覚悟しないといけない。自らが殺されるかもしれないのだったら、自分を殺そうとしている人間を殺す他あるまい。誰だって自分の命が一番大切だ。
今、あなたの頭に銃がつきつけられているとしよう。核ミサイルのボタンが用意され、その核ミサイルを発射して10億人ほどの人間を殺せばあなたは自由の身になれる。しかしそれを断ればあなたは殺されるという、絶対に有り得ないだろうが、そういう架空のシチュエーションを想像してみよう。筆者は10億人の人類には申し訳ないが、ボタンを押すと思う。あなたもきっと同じことをする。つまり赤の他人が10億人死ぬよりも、あなた自身の命の方がはるかに、はるかに大切だ。それではあなたの家族の頭に銃がつきつけられ、同じように赤の他人を10億人を殺せば、あなたの家族が助かるという状況を考えよう。筆者はその場合もボタンを押すだろう。あなたと同じように。赤の他人が何人死のうが、自分の家族の命の方が大切だ。筆者は自分の恋人がひとり死ぬ方が、赤の他人が10億人死ぬより何倍も悲しい。人間の心はこのように設計されているのだ。
リビアで市民の殺戮がはじまった昨日、筆者は自宅でテレビを見ていた。どのテレビも中国から送られたパンダ二頭の様子をトップニュースで報じていた。パンダのニュースが終わると、歌舞伎俳優の暴行事件の裁判の動向が報じられていた。その後にようやくリビア情勢の報道だった。筆者は、日本の民放のプロデューサーが無能だとは思わない。おそらくほとんどのプロデューサーは緊迫する中東情勢をトップニュースで伝えるべきだと思ったはずだ。しかし彼らは私企業として視聴者を満足させなければいけない。多くの視聴者、つまりほとんどの日本人にとって、遠く離れたアフリカの一国で何万人が死のうがどうでもいいことなのだ。それよりもパンダや芸能人のゴシップ話の方がよほど重要なのだ。ニュース番組の担当者は、そういった日本国民の願いに答えているに過ぎない。
現在、戦争などして得することは何もない。だから国単位の経済合理性で判断するなら、戦争など起こらないことになる。中国が日本と戦争しても何も得ることはないし、ロシアもしかりだ。しかしサラリーマンが会社全体の利益など実はほとんど関心がなく、関心があるのは自分の給料だけのように、為政者にとって国の利益よりも自分の利益の方が大切だ。だから会社でも国家でも、個人の利益の追求が、会社あるいは国の利益となるべく一致するように制度設計されている。まともな企業や国家は、個人の権限が相互に監視されるように、洗練されたシステムを構築している。ところが独裁国家はそうではない。
リビアで独裁者が追い詰められたように、北朝鮮や中国の権力者が自国の民衆に追い詰められることは、いつだってあり得る。そして偶然に偶然が重なり、上記の核ミサイルの思考実験のような状況が現実に起こってしまう可能性はある。大きな軍事力をもった独裁政権そのものはそれほど脅威ではないかもしれないが、そういった独裁政権が自国民に追い詰められたとき世界は大きな恐怖と戦わなければいけなくなるだろう。
参考資料
ムアンマル・アル=カッザーフィー、Wikepedia
戦争の経済学、ポール・ポースト、山形浩生(翻訳)
核兵器と自由貿易は確実に戦争をなくした、金融日記
戦争って意外と簡単にはじまるかも、アゴラ
コメント
エントリの本筋じゃないですけど。
↓これはホントなの?
—quote—
多くの視聴者、つまりほとんどの日本人にとって、遠く離れたアフリカの一国で何人人が死のうがどうでもいいことなのだ。それよりもパンダや芸能人のゴシップ話の方がよほど重要なのだ。ニュース番組の担当者は、そういった日本国民の願いに答えているに過ぎない。
—unquote—
あと、
藤沢さんはテレビを持ってない人だと思ってました。
性悪説を前提にした社会システムの構築をしないと、家族を守るべきか10億人を殺すかの選択肢を一握りの人間に与えることになってしまいます。一応形の上では普通選挙による民主政治はそれを防いでいるようですが、これはこれで利権政治が発生して違う方向で社会を弱体化させている側面もあるのは事実です。
バブル崩壊後の中国は心配でありますが、何かあったら天安門事件でやったように水平打ちで皆殺ししそうです。何しろあの国の独裁政治の正義は皆殺ししてでも政権を維持することですから。そして周りの国も大量の難民が出たら困るので、その点は見て見ぬふりをするでしょう。
ボタンを押すかどうか、はサイデルさんのレクチャーぽくて異論あると思われますが、考え方としてはあり得る話だと思います。(ちなみに私は絶対押しません。)
欧米が今回のイスラム騒動であえて秩序を叫ばないのは、「絶対権力は絶対腐敗する」が強く信じられているからだと思っています。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2007/09/post_411.html
(本当は霍見芳浩先生の「地球時代を世界と生きる」が個人的参考文献ですが、20年以上前の本で絶版でした)
この一件でイスラム社会に埋もれていた優秀な人材が世界にどんどん出てくるでしょうから、ご近所の欧州ものんびりできなくなるでしょうが。
anonymous_cowardさんと同じ部分が自分もひっかかりました
リビアよりもパンダと歌舞伎役者の裁判が優先的に報道されていたとのことですが
それは朝か夕方のニュース番組でしょうか
テレビ番組ってニュースも含め、もはや日本人全体の興味を平等に反映するような存在ではありませんよ
それは視聴者層が過去と比べてより一段と偏っているからです
朝や夕方のニュース番組では中心が主婦やお年寄りですからね
なので特集なんかもそれらの層向けに作られています
そもそもテレビでニュースを見るという層自体が偏ってますよね
身も蓋も無いですが
テレビの番組でリビアが優先的では無かったとしてそれが=殆どの日本人の興味と言い切ってしまうのは
筆者さんあまりにテレビメディアに無関心では無いでしょうか?
本筋と関係なくてすみません
自分が一番大事で、その次は家族。
だから、大事な者を守る為に何でもする。
そうかもしれない。
国家と自分の命を天秤にかけたら自分の命が大事。
じゃ、他国が攻めてきたら自分の命を投げ出せなくなっちゃいますね。
「日本なんかいらない。中国の一部で良いや。」に通ずる物がないですか?
私は日本が大好き。でも、自分の命も大事。なんか難しいわ。
私は10億人を核ミサイルで殺すことと引換えに生き残りたいとは思わない。このブロガーは経済問題については興味深い視点からの発言があるようだけれど,国際政治・地政学の話についてはハズレが多いようだ。思いつき・アイデア一発で書いているのか。ドーキンスの本の引用もむちゃくちゃだ。
今回のエジプトやチュニジアで勃発した一連の中東不安は,アメリカの金融危機で刷りまくった虚金の束を握っている連中が,それを実金に換金するために,リビアの石油を強奪する目的で仕組んだのだと思います。それでなければアメリカがイスラエルが困るようなこと,エジプトの親米政権を失脚させたことに説明がつきません。これからリビアの石油がどう売り捌かれて,誰が儲かるかを追っていくと真実がわかるでしょう。
「10億人と自分の命どちらが大事か?」みたいな問題は細かい条件次第でいくらでも回答が変わりますね。
私だったら10億人などと言わず、例え1万人であっても、それが一般市民であるなら自分の命を犠牲にすることを選びます。しかし、それが「他人に危害を加えたことがある犯罪者1万人」であるなら自分の命を選びますね。権利は平等でも、命の価値は平等ではありません。有限の世界に生きる以上、全てを救済することは不可能であり、何らかの序列を付ける他ありません。その序列のつけ方は人それぞれでしょうけど。
この記事は、金融日記ならともかく、アゴラにのせる値打ちがあるんだろうか?
アゴラも、やっぱりレフェリー制をもうけて、レフェリー2人のノーがでれば(1人ではきつすぎるので)、キックアウトするくらいがいいと思う。あるいは、レギュラー投稿者で、ネタ切れで苦し紛れに、不得意分野の独裁者論を書いた?
コメントはともかく、オリジナル記事は一定レベルの基準が保たれることを望みたい。
藤沢数希氏が今回提示された戯画的な状況は、「国を守るという意味(続編)石水智尚」や『朝まで生テレビでのホリエモンや東浩紀氏の発言は、日本人に特有の「平和ボケ」というしかない。』と意見を腑分けするのに私にとって大いに役立った。
人々を、それも他国民であれ自国民であれ自身の保身のために殺傷する能力を持つ独裁者が、追い詰められた時にどのように行動するのか?
それはイラン戦争の際のフセイン、今回のカダフィの事例をみれば明らかだ。
彼らは自身の保身のためには躊躇なく他人を犠牲にする。
私たちはその実例をマジマジと見せ付けられた。
ここに及んで、藤沢数希氏の戯画的な問いかけを自身に当てはめて”私は独裁者のようにしない”と言うのは「平和ボケ」の最たるもの、ではなかろうか?
独裁者とはそういうモノなのだ。
“ならず者国家”と隣接している日本において、かの国の独裁者たちが合理的な思考を持たず、その生きるか死ぬかの際には自国民のみならず、私たち日本人をも一蓮托生で地獄に引きずり込もうとすることに、私たちは是非とも注意を向けるべきだ。
かなり日本的な発想ではないですか?
日本に核は無理でしょう。押しかねない。
色々なシチュエーションがありますが、例えばテロリストに脅迫されて核ボタンを押す場合はどうでしょう?核ボタンを押すことができるのはもちろん、一人だけです。押さないで殺されると、もう核ボタンを押すことはできなくなります。
色々条件をかえて思考実験すると面白いですよ。核ボタンを押すことができるのは
2人いないとできないとか。
ここはイスラム教と石油に突っ込むところでしょ。イスラム教だと、利子の扱いだとか、先物取引なんかも禁止のようです。
原油とドル決済の関係とか?そうすると、独裁者とはなんなんだと?
>>1,4 の方々が異議を唱えてる点について私も。
「アラブの革命を日本のテレビが扱いたがらない理由は視聴者」
ではないです。
素朴な反論として、視聴者は赤の他人の惨事は好んで見ます。
国によって濃淡はありますが
・米国と癒着した独裁政権
・それと癒着した特権階級
・その特権を維持するための情報統制
といった今回の革命を起こされた側の要素は、日本にも強固に存在し、アラブの革命を長く報道するほど、それに気付いたり連想したりする国民が増えるので、我が国特権階級側の主要メンバーであるテレビ局は放送しないのです。
なるべくパンダや芸能人の方に注目を向けたいのです。
金融日記、拝読させていただいています。
非常に示唆に富む内容で、多方面の博識ぶりに感銘を受けております。
しかしながら、今回の記事には異論があります。
人は自分の命が一番大事というのは、実に浅慮な考えだと思います。
古来、人のため、社会のため、家族のため、恋人のため、子供のために、自分を犠牲にして他を生かすために死んでいった人達は大勢います。
そこが、動物と人間の大きな違いだと思います。
人は自分の為には案外頑張れないものだと思います。人のために生きてこそ初めて頑張れるものです。