京大カンニング事件にみるこの国の劣化 ‐ 中村伊知哉

2011年03月07日 12:07

慶應義塾大学教授

小学校低学年のころ、近くにあった京都大学というところはいつも争乱でした。ヘルメットにゲバ棒のお兄さんたちと機動隊とが衝突していて、火炎瓶で火だるまになる人を見物しに行きました。酔っぱらったヤジ馬が「学生がんばれ~」と怒鳴っていました。それから十年ぐらい経ち、自分がその門をくぐりました。

学生運動が終焉していたとはいえ、時計台には「竹本処分粉砕」との落書きが往時をとどめ、少ないながらもヘルメットとマスクはうろついていました。大学当局も何かにつけ国家権力とは距離のあるたたずまいでした。


しかも私は授業にも出ず、西部講堂という第一勧銀7千万円強奪犯が逃げ込んでも大学当局も警察もわからなかったという実に治外法権の場所で過ごしていたため、当局や権力との距離感がズレている面はありましょう。その自分が結局、政府の役人になり、その後、大学に身を置くようになったというのは、バチ当たりなことですが、だから社会と大学の関係性は余計に気になります。

先日、ドイツ最古の大学であるハイデルベルク大学の学生牢を訪れました。むかしの治外法権の大学自治を体現し、ルール違反したヤツを閉じ込めておいた場所。その連中が壁の全てのスペースに落書きをし、反抗と学生の矜持とを歴史に刻んでいます。

学外=社会のルールに処分を委ねず、身内に止め置いて飲み食いさせて落とし前をつけさせるなんて、温かい処置ですよね。ネッカー川に放り出 して世間の者どもに処置させれば安上がりなのに。大学自治というのは、そういうコストをかけるということなのでしょう。

その京大で起きた入試カンニング事件。カンニングは悪などという説教は省きます。私は2つの面で、日本の重要な機能が弱体化し、陳腐な姿になっていると感じました。大学の在り方と、メディアの在り方の変化です。

まず大学について。これを刑事事件にした「判断」が疑問です。

学生の採用選抜という大学設計の最も大事な場面で不正が発生したことは、重大なできごとであるがゆえに、最も自治力を発揮して解決すべき問題のはず。本来、行為者を失格にすればよく、その責任は大学にあります。犯行組織がからんでいるようならまだしも、個人プレーの可能性が高い場合はなおさら慎重であるべきです。

この点、茂木健一郎さんが「報道された複数の大学を共通して受験して いる学生を、大学間で情報を共有して割り出せば、少数の候補を特定できたはず」と記しています。私もそう考えます。少なくともやすやすと警察を動員する前に、自分たちとしてすべき仕事があるのではないかと。

なのに「被害届」というアクションを自ら起こし、結果として受験生を逮捕に至らしめたことには、自治の面からも、教育機関としての面でも首をかしげます。受験生が逮捕される展開になるだろうことに組織として大学自治や教育効果といった葛藤や逡巡があるようには見えませんでした。この点、京大教授陣のナマの声を聞いてみたい。昔ならタテカンが建ってビラが舞ったであろうキャンパスを往く現役学生たちの声も聞いてみたい。

これに対し、本件は本来犯罪ではない「カンニングを刑事事件にした」のではなく、「業務妨害の犯人を捕まえたら動機がカンニングだった」という指摘もあります。法的にはそうかもしれない。顧問弁護士にでも聞けば被害届を出せと答えるでしょう。

しかしこれは、まずは行為を犯罪と判断した後の理屈でしょう。ネットに情報が流出した時点で、その行為の目的はほぼ自明であり、警察が動けば結果は「カンニング犯を逮捕」にしかならないことは誰でも予測できる。問題は、コトを外部化し、カンニング者を犯罪者にしてやると「教育機関が決断」したことの是非です。

ところで私は受験生が写真やUstを使い、外部の協力者と実行したと見ました。それがたった一人で数学受験中に親指一本で6回も発信した。それが事実なら、よっぽどユルい監督だったわけで、04年 韓国のケータイカンニング事件に学ばなかった大学側の責任も問われます。犯人逮捕後の新聞でも入試監督の甘さを問う記事が増えてきました。当然でしょう。

しかし結果としてカンニング者を偽計業務妨害罪で差し出してしまったこれから後、疑わしき受験生は犯罪者にしてしまう入試ってどうなのですか。私も試験監督をすることはありますが、そんな監督を引き受けるのはマジでイヤです。だけど、業務妨害になるような輩を見つけたらサツに突き出さなければ不公平ってもんじゃないですか。これは、今後の受験生にヘタな動きしたら逮捕プレッシャーを与えることになりませんかね。

京大教授陣なら、そうなることも想定して判断したんですよね?

もう一つはメディアの変化です。

2月27日の朝刊で報じられて以降、1週間にわたり、新聞は朝刊夕刊ともにほぼ一面トップを独占。テレビのニュースもトップ扱いが続きました。未だ生存者の安否が気遣われるニュージーランド地震や国会解散含みの政府予算審議に優先されるニュースでは断じて!ありません。

不正巨大組織が超ハイテクで驚異的なカンニングを断行!大学制度を揺るがす事件が発覚!ならまだしもです。どうみたって当初から1人か2人か?って話じゃないですか。しかもその報道内容も糾弾一辺倒で、社説で行為を批判してみたり、受験生の腹立ちコメントを集めてみたり、執拗に「犯人」の人物像をあぶりだしてみたり。

日本のマスコミって、こんなんでしたっけ?

受験生を追い詰めて、悲劇が起こったらどうするんだろう、という心配をさせられるほど、事の軽重が揺らいでいて、毅然とした編集がなされなくなっている。アンテナ感度の鈍ったポピュリズムに下半身が液状化している気がします。テレ朝のスパモニで長島一茂さんが「カンニングなんてみんなやってただろ」と発言したのにテレビ画面が凍り付いたと観たのは私だけではないでしょう。

この点、ネット上では、事件を扱う重さも、正否のバランスも、多様な意見による平衡感覚が保たれていたと見ます。本件は、ケータイというパーソナルメディアから、Yahoo!知恵袋というネット上のマスと情報が共有された事件。それを旧来のマスメディアが「それみたことか」と大騒ぎしている。騒ぐほど、自らの危機を際だたせるのではないでしょうか。

ところで、ケータイからYahoo!知恵袋への発信というのは、文部科学省が推奨する「教え合い・学び合い」のデジタル版かもしれません。2020年にデジタル教科書の全面普及を目標に掲げる政府としては、全ての子どもがネット端末で勉強をする未来のモデルをこの手法に見るのではないでしょうか。

つまり、問われているのは、入試の在り方そのものではないのか。外界と隔てた空間で頭の中に詰め込んだ知識の量を問うという選抜方法がこれからも有効なのか。例えば私の所属する大学院は、知識量よりも、実績と成長可能性を重視するため、入試は書面審査と面接であり、入試業務に全教員が年10日ほどカンヅメになります。カンニングの問題は少ない一方、大変な選抜コストを払っています。高等教育が求める人材をどういう方法で選抜するのか、が問われているのではないでしょうか。

また、こうした問題を起こした人への対応も気になります。この受験生を罰しておしまいでよいのか。知識を盗み見るタイプのカンニングは科挙でも行われていました。デジタル時代には新手のカンニングが開発されていくでしょう。どのような手法が考えられ、どのように大学側が対応すればよいのか。それを考える際に、こうした人の能力や技術を活かすこともあり得るでしょう。

大学やマスメディアのドタバタぶりをみただけで終わりではもったいない。次につながる議論に進みたいですよね。

(中村伊知哉 慶應義塾大学教授)

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