戦前期の日銀国債引き受けの実態

2011年05月24日 23:50

昨日、ツイッター上に、

高橋是清による国債の日銀引き受けは、国債を日銀に保有し続けさせ、国債のマネタイゼーション(貨幣化)を行おうとしたものではありません。当時のベースマネーの動きを確認すれば分かります。高橋是清自身は、日銀保有国債の民間金融機関への売りオペにも腐心していたのであり、実際にも高橋財政期の1932-36年の間については、日銀が引き受けた国債のほぼ90%は、市中に売却されています。史実を正確に確認することなしに、歴史から学ぶことはできません。日銀引き受け=マネタイズ、というイメージになっているけれども、高橋財政期の実態はそうではなかったというのが史実


という旨を書き込んだら、多少反響があったので、もう少しちゃんと書いておきたい。


昭和恐慌の深刻化にもかかわらず、政策転換を果たせないままに行き詰まった民政党・若槻礼次郎内閣に代わって、1931年12月に政友会・犬養毅内閣が成立し、高橋是清が大蔵大臣に就任する。その後、36年に二・二六事件で暗殺されるまで、(ごく短い例外を除いて)高橋が大蔵大臣を続けていたので、1932-36年の間は「高橋財政期」と呼ばれている。

内国債の発行残高は、31年の48億5600万円から32年には56億0200万円に増加する。国債大量発行を円滑に進めるために、32年の11月から国債の日本銀行引き受けが開始される。高橋財政期における日銀引き受け比率は、国債発行額の80%以上を占めていた。なお、高橋の死後(日中戦争が始まり、戦時体制下入りした37年以降)は、郵便貯金を原資とする大蔵省貯金部による引き受けが増大し、日銀引き受け(は絶対額では増加したものの、その)比率はむしろ低下する。

ここで留意すべきは、国債の日銀引き受けは「発行方法」の1つだという点である。換言すると、国債の日銀引き受けは、引き受けた国債を日銀がずっと保有し続けることを自動的に意味するものではない。それとは反対に、高橋財政期における日銀引き受けは、売りオペ(民間金融機関への売却)を前提として行われたものであった。日銀は、速やかに引き受けた国債の市中売却を進め、高橋財政期中は、既述のように総引受額のほぼ90%を売却している。

このように実態的には国債は市中消化されていたので、国債の日銀引き受けにもかかわらず、国債のマネタイズ(貨幣化)は抑制され、ベースマネーの増加も、それ以前の緊縮政策によって収縮していた分を回復させた程度にとどまっている。ベースマネーが著増していくのは、高橋死後の戦時体制下においてである。

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出所:藤野正三郎・寺西重郎『日本金融の数量分析』東洋経済新報社、2000年。

要するに、高橋財政期においてインフレが制御可能な範囲に収まっていたのは、国債発行について日銀引き受けという発行方法をとったものの、市中消化を基本としていたからであり、国債のマネタリゼーションを行わなかったからである。他方、敗戦直後に国債のマネタリゼーションが行われると、ハイパーインフレションが起こった。

ところが、1935年の下期以降、その市中消化に変調が生じるようになる。この事態に直面して高橋是清は「公債が一般金融機関等に消化されず日本銀行背負込みとなるやうなことがあれば、明らかに公債政策の行き詰まりであって悪性インフレーションの弊害が現れ・・・」と懸念したと、『昭和財政史』は伝えている(富田(2005)からの孫引き)。この言をみれば、高橋是清の業績を持ち出して国債のマネタリゼーションを主張するのは、全くの史実の歪曲であることは明らかであろう。

高橋は、市中消化の変調を受けて公債発行自体の削減を図ろうとし、そのために軍需予算の圧縮を求める。そのことが、軍部の反発を買って、二・二六事件での悲劇につながることになる。

なお、以上のことを踏まえると、財政法第五条の但し書きの「特別の事由がある場合」とは、国債の発行市場が機能不全に陥っているような場合という意味で解釈するのが自然だといえる。特別の事由とは、大震災の発生といった話ではなく、何らかの理由で他の方法では国債の発行が円滑には行えないといった事態を指しているのであって、その場合でも、日銀が引き受けた国債を持ち続けることを強制できることを含意しているわけではない(こうした解釈が多数説である点については、岩本氏のブログ記事も参照のこと)。

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池尾和人@kazikeo

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