「技術立国」の為に必要なことは何か?

松本 徹三

「日本は、技術力ではなお世界に抜きん出ているところも多々あるので、技術立国を目指すべき」ということがよく言われる。私もこれには同意見だし、私の外国人の友人達も掛け値なしに日本の「技術力」には一目置いている事は間違いないといつも感じる。しかし、そうは言っても、この事について私はあまり楽観的にはなれない。それというのも、「国益に資する技術力」とか「事業経営に必要な技術知識」とかについて、正しい理解を持った人が現状では少ないように思えるからだ。


日本で最も問題なのは、「文系」と「理系」を殊更に分け、企業の中では「技術系」を殊更に「別部落」視する傾向がある事だ。東京電力では、長い間、政治家や官僚と政策問題を話し合える「総務系」或いは「企画系」がトップと決まっていたという。この事からも伺えるように、日本の大企業では、大体において「文系」の方が重視される傾向がある。(尤も、「文系」といっても、何故か「営業系」が入る事は滅多にない。)そのくせ、技術的な問題になると、「うちの技術屋はこう言っている」等と言って、トップは全てを自社の技術部門に丸投げすることが多い。

「技術」とは何だろうか? それは、「或る目的を達成する為に人間が作り出す手段(道具)」であると言ってよいだろう。これが、「何故?」という根源的な問いに答える事から出発する「科学(学問)」と違うところだ。人力に頼らずに紡織機を動かし、汽車や汽船を動かすために蒸気機関が開発され、遠方にいる人達との交信を可能にする為に電信電話装置が開発された。即ち、「技術」と言うものは、あくまで「目的」と一体で考えられるべきものだ。

各企業の「目的」は多種多様であり、その一方で、人が考え出す「技術」も多種多様だから、それぞれの「目的」に最もよく合致する「技術」が、その都度厳選される必要がある。そう考えれば、その選択を「うちの技術屋」に盲目的に任せてしまうことが、如何に不適切であるかはすぐ分かる。

「自らが使う技術を自ら開発するのが当然」と考えられているような場合には、余程の大人物がいない限りは、自社の技術部門は当然自分達が開発した技術が一番良いと主張し、他の技術を排斥しようとするだろう。(これが俗に「Not Invented Here」と呼ばれる症候群だ。)しかし、「自社で開発した技術」が世界一である確率はどう考えてもあまり高くないから、常に彼等の顔をたてようとすれば、「世界一の技術」の採用は諦めるというのに等しくなる。

経営者の仕事は、会社の「目的」が何であるかをしっかりと見極め、その上で、その為に必要な「技術」が何であるかを見極め、それを「道具」として使いこなすことである。

必要な技術は誰かが既に開発している事が多いが、そうでない場合もある。外部の人に開発を依頼してもちゃんとやってくれない可能性もある。だから、そういう場合は、自分で開発するしかない。また、秘かに考えている会社の事業の「目的」が全く新しいものである場合は、秘密を守る為にも、また将来他社に真似をされない為にも、自分で技術を開発する必要がある。しかし、それは、あくまでも、「そういう場合」の事であり、「何でも自前でやろう」というのは誤りだし、自社の技術部門にもしもそういう傾向がみられれば、トップはそれをたしなめるべきだ。

そのように考えると、トップ経営者は、自社の目的を追求するために必須となる「技術」については、場合によれば、自社の技術部門の長以上にその本質を理解していなければならない事になる。詳細は自社の技術部門の判断に委ねればよいが、その判断の適否を見極める能力は備えていなければならない。その為には、それらの技術の根幹にある「原理原則」と「世界での大きな流れ」は、常に的確に理解している必要がある。これがなければ、経営者失格と言っても言い過ぎではないだろう。

私が見てきた限りでは、創業者型の経営者には比較的問題が少ない。若い時から何についても「最後は自分が責任を取る」という姿勢に徹してきたわけだし、「何事にも興味を持ち、徹底的に自分でも分かろうとする」という性格の人が多いからだ。しかし、敵を作らず、組織の中を上手く泳ぐ事によって今日の地位を築いてきたサラリーマン型の経営者には、問題が多い。「他人の領域は侵さず」が「敵を作らない」為の不文律であり、実際にそうしてきた人が多いからだ。こういった人達は自分の責任範囲のところはきっちりやるが、全体がどうなってもあまり意に介さない。この様な人達で経営の中枢が占められると、常に責任の所在が不明確になり、問題が起こってもお互いに庇いあって、抜本的な問題が覆い隠されてしまう。

もう一つ、私が楽観的になれない理由は、私自身が長年感じてきた「日本型の技術者と技術組織」の問題点だ。

日本の技術者は、総じて真面目で、細部に手を抜かないのが特徴だが、これは長点であると同時に弱点でもある。残念ながら、真面目な人は、良い上司に恵まれればよい結果を出せるが、上司が悪いと小さい枠に閉じこもり、低いレベルに留まってしまうことが多い。それでも、外国の製品が細部で劣っていると、鬼の首をとったような気になってしまい、「外国の技術はこの程度か」と見くびってしまう。実は、外国人の目から見れば、この程度の落ち度は「苦笑する」レベルのものであり、本当の勝負は全体の設計思想の「柔軟性」や「拡張性」にあるのだが、日本の技術者はこの辺を見落としてしまいがちだ。

また、日本企業の「技術部門の組織」は、概ね「専制的」で「硬直的」であるように見受けられる。上下関係が厳しく、実際に手を汚している担当者が見て「違うんじゃあないの?」と思うことが多々あっても、それを言い出し憎い空気があるようだ。開発の方向についても、「お客がこれを要求しているのだから」と上司が言って、下の意見を封じ込めてしまうことが多いように見受けられる。しかし、ここで上司が金貨玉葉にする「お客の要求」というものも、実は、発注する側の担当者が思いつきで言った程度のもので、真剣に議論すれば取り下げてくれるようなものも多々含まれているようだ。全般に言える事は、上下の区別なく闊達に且つ徹底的に議論する事が少ないように思えることだ。

一番残念なのは、設計思想を抜本的に見直すような提案が出にくく、仮に出てきたとしても、「そんなこと、今更出来るわけはないじゃあないか」の一言で簡単に葬り去られる事だ。一事が万事で、これは「発想の飛躍」が出にくくなる素地を作る。しかし、「発想の飛躍」がなければ、世界をリードするような技術が生み出されるわけはない。

私がかつて勤務していた米国の技術開発会社では、技術者は一定のレベルになると、「開発者」になりたいか「技術マネージメント職」に進みたいかを自己申告する事になっていた。大抵の人達は前者を選ぶが、中には後者を選ぶ人達もいる。こういう人達はバランス感覚に優れていて、何をしても危なげがないし、筋の通る事には常に協力的だ。そして、こういう人達には、ManagerからDirectorへ、Senior DirectorからVice Presidentへと昇進する道が開かれている。一方、前者を選んだ人達の中には、自分のしたい事に対するこだわりが強く、やりだすと我を忘れて夢中になり、いつも人をアッと言わせるようなことが出来ないかという夢を追っている人達が、相当いる。

つまり、後者は、ある種の能力を持ち、その事を自分の得意技として意識する少数のグループであり、前者は、「とんでもない才能を持った若干の人達」と「単なる凡人」がごった混ぜになった大集団という事になる。日本の組織では、「単なる凡人」をマネージ出来る人には居場所があるが、「とんでもない才能を持った人」には居場所がない。当然の事ながら、こういう人達は、言いたいこともあまり言えない。

しかし、競争の激しい現在の技術の世界では、「とんでもない才能」を持った人のいない企業にはチャンスはない。従って、こういう人達に居心地のいい環境を作れない企業が中心になっている限りは、日本の「技術立国」も無理だと言える。

尤も、仮に「とんでもない才能」に居場所が与えられたとしても、私は未だ安心できない。恐らく日本では、こういう人達は、「馬鹿でかい構想力を持った人(Architectタイプ)」というよりも、「一つの方向に尖がった人」である可能性が強いように思えてならないからだ。これは、長年島国で育った日本人の性格が、知らず知らずのうちに「拡散型」ではなく「凝縮型」になっている可能性が強い事による。これはこれで素晴らしい能力ではあるのだが、こういうタイプの人達だけに頼っていると、袋小路にのめり込み、気がついた時には既に手遅れになっていたという事にもなりかねない。

そのように考えると、日本の技術立国の為に最も必要とされる人材は、「文系たると理系たるとを問わず、拡大志向の強い事業者型、又は茫洋とした将帥型の人間で、事業や政治に対するのと同様に『科学技術』にも並々ならぬ興味を持ち、望むらくは、『常に物事の本質を見極めようとする姿勢と、それを可能にする洞察力』を持った人間」という事になるのではないだろうか? 

しかし、現在の学校教育には、残念ながらあまり期待は出来そうもない。大学というものが、教授達の「研究」の場なのか、未来の人材を「教育」する場なのかも定かでないし、効率的な「教育」の手法も確立しているとは思えない。また、特に感じるのは、今の大学が極めて閉鎖的で、各分野でのボス的な存在の人達の力が強く、アカデミック・ハラスメントすらが罷り通っているようだという事だ。

だから、せめて民間の各企業が、こういう人材の育成に興味を持ち、文系(業務系)、理系(技術系)の枠を取り払って、長期的な視野で大器を育てていって欲しいと思う。