原発事故は「近代合理主義の限界」か

池田 信夫

きのうのアゴラBOOKセミナーで田原総一朗さんと原発問題について議論したが、おもしろかったのは「思想界」の話だった。特に反原発デモに参加した柄谷行人氏は「デモに来るのは50年ぶり」と語り、その後もあちこちで「原発は近代合理主義の限界だ」とか「原子力は人間のコントロールできない反自然のテクノロジーだ」といった議論を繰り返している。彼は、福島事故の実態を知っているのだろうか。


地震は東電の想定を超えたが、原子炉は想定どおり緊急停止した。ディーゼル発電機が浸水して動かなかったのは「近代合理主義」とは無関係の平凡なプラント事故だ。炉心は完全に溶融したが、恐れられていたチェルノブイリ型の人身事故は起こらなかった。先日、ある原子力技術者が「炉心が全部溶けたのに圧力容器が無事だったのが、いい意味で驚きだった」と言っていた。

柄谷氏は「プルトニウムは何万年も監視が必要」だというが、ダイオキシンや六価クロムは永久に監視が必要だ。核廃棄物は、こうした産業廃棄物より体積がはるかに小さいので、問題は技術ではなく政治である。「人間のコントロールを超える技術の暴走」はメキシコ湾の原油流出事故でも起きたが、「海底油田は人間がコントロールできないからやめよう」という人はいない。

中沢新一氏や内田樹氏の「自然界にない核反応を利用する原子力は凶悪だ」という話に至っては、お笑いというしかない。彼らは太陽のエネルギーが何か、知らないのだろうか。「原子力は一神教で中央集権だ」とか言っているが、火力発電は分権的だと思っているのか。彼らのいう「日本的アニミズム」で1億kWの電力がまかなえるなら、やってほしいものだ。

近代が「反自然」のエネルギーを解放して繁栄をもたらす一方で、大量殺戮をもたらしたという問題意識は、新しいものではない。この点をもっとも先鋭に告発したのは、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』である。彼らは、二度の大戦に象徴されるテクノロジーの暴走の根源には、ニーチェが批判してハイデガーに受け継がれた、自然の中に超越的真理を発見して支配する形而上学があると論じた。

原子力は、こうした西洋近代の「自然の征服」という思想を究極まで推し進めたに過ぎない。統計的にみても、原子力よりも石炭火力のほうがはるかに危険な技術であり、大気汚染や採掘事故で、全世界で年間数万人が死亡している。世界のプロが提言しているのは、むしろ脱石炭火力である。性急に「脱原発」を進めると、石炭火力の運転が増え、環境汚染も温暖化もひどくなる。これは近代合理主義がどうとかいうおしゃべりとは関係なく、エネルギーと環境をどう調和させるかというプラクティカルな経済問題である。