なぜ九電は「やらせメール」という自殺行為に走ったか

大西 宏

九州電力のいわゆる「やらせメール」は、教訓とすべきいくつかの問題を投げかけた事件であったと思います。それにしても、この事件は、九州電力のみならず、原発を運用管理する電力会社への信頼をさらに深く傷つける結果を招きました。結果、点検で休止している原発の再稼働を困難にし、それによって電力が確保できない問題が深刻化してきています。
それにしてもなぜ、九州電力やその協力会社には、普通なら働く倫理観や常識が働かなかったのでしょうか。


この「やらせメール」事件は、1972年に社会心理学者のアーヴィング・ジャニスが提唱した概念の「グループシンク(集団浅慮)」の罠が働いた結果そのものです。普通では、決して渡らない赤信号も、グループでいると、誰かが渡ろうと言い出しても誰もが反対せず、そのままみんなで渡ってしまうことが、組織にはしばしば起こりえるという問題です。

このメールが赤信号を渡る行為であることはメールを考え、文章を書いた人は分かっていたはずです。メール送信で回線が混雑するというありえない理由をあげ、わざわざ自宅からメールを送るように指示しています。それはとりもなさず、アドレスで発信元が判明すれば、それが問題になることを自覚していたことになります。確信犯だったのです。

普通の人なら、もしそんな内容のメールを受け取ったら、即座に発信元の人に電話をかけ、発覚すると大変なことになるので、メールには原発関係者だと明記するように追加のメールをだすように忠告したはずです。しかし、社内でも、受け取った側も、なにの疑いもなくメールを指示し、またメールを転送し、さらに番組にメールを出してしまったようです。

常識が働かず、そういった馬鹿げたことが起こってしまった最大の問題は、「原子力ムラ」の言葉が象徴するように、世間から隔離された同じ価値観、同じ考えで固まってしまった組織体質の問題です。そういう組織体質がグループシンク(集団浅慮)の罠に陥らせたのです。

さらに電力会社は独占企業で、競争がほとんどないために、気の緩みが起こってきます。大口電力では電力自由化が行われたと言っても、PPS(特定規模電気事業者)からの電力供給は、平成21年で2.82%に過ぎません。

しかもPPS(特定規模電気事業者)の参入があるのは、電力需要の大きい、関東、関西に集中しており、その他の地域では、電力会社の独占度は高く、よけいに殿様状態になってしまいます。PPS(特定規模電気事業者)の販売電力量シェアは、東京で5%強、関西で4%強ですが、九州電力では1%にも達していません。

江戸時代ならお家取り潰しの脅威がありましたが、電力会社は、政府と一体となった原子力村を形成しているので、まったく組織がなくなるという脅威がなく、リスクに対する意識が育たないのは当然でしょう。このあたりが一般企業と異なるところです。

第二の問題は、コンプライアンスのあり方です。電力会社も当然コンプライアンスに取り組んでいます。九州電力もしかりです。しかし、一般市民という偽装を行って、社会が忌み嫌う情報操作をやったということは、いかに行っていたコンプライアンスが役にたたなかったかです。
九州電力 コンプライアンス経営の推進 :

コンプライアンスはしばしば「法令遵守」と訳され、マスコミ記事でもそう書かれていることが多いのですが、その翻訳そのものが組織の倫理や常識の荒廃を生んできたのではないかとも感じます。

本来は「法令順守」にとどまらず、社会のなかの倫理や常識を尊重し、企業市民としてより社会貢献をしていくために体質づくりやチェックを行おうということが理念であるはずですが、ともすれば、法に触れなければいいという発想、訴訟がおこらないこと、訴訟に耐えるためにどうすればいいかという発想につながり、企業防衛のツールになり下がってはいまいかという疑問です。

コンプライアンスで、もっとも安易な解決は、問題になりそうなことはコンプライアンスの壁を厚くして、問題を起こしかねない現場に対しては、新しい問題へのチャレンジをあきらめさせることです。それが重なると、組織の活力を失わせます。だからコンプライアンス不況という言葉すら生まれました。

東京電力や九州電力の記者会見でも、あまりに企業防衛を意識するために、しばしば記者会見の場で、経営者や責任者が質問に答えず、メモが渡されてやっと答えるというシーンがありました。それはとりもなおさず、やがて、経営者ですら、自分自身ではなんら判断できない病をつくりだしてしまうことを象徴しているようでした。

今回の「やらせメール」も「法令遵守」ということではチェックがかかりません。また問題が発覚したときの影響の大きさも判断できません。それは「法令遵守」よりもはるかに重要な倫理観と常識を取り戻すことしかありません。

そのためには、より上位の概念である企業市民として社会貢献はどうあるべきかを考え、企業活動を進める組織を置き、その下に「法令遵守」の部門を配置し統治するのが本来の姿かと思います。

さて、今日は情報倫理とでもいうべきこと、情報発信は公正でなければならない、判断するのは受け取り手であり、不正な情報操作で、受け取り手の判断を間違わせる行為を行わないことが、従来に増して求められてきています。

福島第一原発事故の影響は、自ら、また家族の安全や健康、また生活に関わるだけに、さらに国民は正しく判断するための正確な情報を求めるようになりました。

インターネットの世界も、情報倫理を求める大きな流れが生まれてきています。インターネットの世界は、誰もが情報を発信できます。まったく異なる考え方に基づいた情報発信、また情報も玉石混交で、膨大に流れる世界です。ソーシャル・メディアの時代となり、その傾向はさらに進んできました。そのことが情報倫理が重要であることへの認識を広め、また深めてきたように感じます。

インターネットによって、人びとが溢れるような情報に接し、それを解釈する知恵、情報リテラシーを持ち始めた社会では、企業もそれに適応できる能力や体質が問われてきます。情報の多様性のなか、また情報リテラシーが高まったきたなかで、情報発信側に求められるのは、情報発信に際しての正直さや公正さです。

双方向で反応のあるインターネットと異なり、マスコミはまだまだ一方通行の情報発信という限界から、かならずしも公正な情報提供をしてこなかった、情報操作の疑いがあることへの批判が、インターネットの側からあがってきたというのも当然の流れです。政府の情報提供に関しても批判が高まってきているのも同様です。

九州電力、また電力会社が、そういった時代の流れに適応するためには、「普通の人」を経営内部に取り込むぐらいのことをしなければ、ワンパターン化してしまった思考の罠から逃れることは難しいと思います。

発送電の分離が独占の弊害をなくすもっとも有効な方法ですが、それができないのなら、せめて、同じ原子力村の天下り官僚を経営者から退場させ、外部からの人材導入を求めるぐらいは政府にもできるのではないでしょうか。そんな迂回作戦よりも、まずは東電を経営破綻させることが正攻法だとは思いますが。

(参考)大西 宏のマーケティング・エッセンス : 「リスク管理思想」ではなく、「倫理」と「常識」が働かなかっただけ