原発事故を哲学的に再考する

2011年07月12日 15:04

東日本大震災、そしてそれによってひきおこされた福島第一原発の事故から、4か月が経過しました。福島第一原発の事故については、いまだにさまざまな評価が行われていて、今後わが国の原発政策をどのように舵取りしていったらいいのか、まだまだはっきりとした方向性が定まっていない状況です。そこで、今更ではありますが、あの震災によってひきおこされた原発事故をどのように捉えたらいいのか、哲学的な観点から再考し、それによって、今後の原発政策についての議論の一助になればと思います。


(以下、2つの論点に絞って考えます。)
【論点1】あの事故は、1000年に一度という極めて稀な大地震によってひきおこされたものである。そのような超レアケースの事象だけを取って、わが国全体の原発政策すべてを見直すのは行き過ぎた判断である

あの震災が1000年に一度のものであったという主張は、西暦869年に起こった「貞観地震・津波」と規模や発生のメカニズムが類似していること、そして、そもそも地震がある一定の周期で起こるものであることが、根拠になっていると思います。しかしそもそも、そのような判断の拠って立つ根拠自体が、揺らぐとしたらどうでしょう?

哲学者のクリプキは、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』という本の中で、「クワス算」というものを提示しています。

例えば、「+」という演算を考えてみましょう。いま、「68+57」という計算の答えを求められた場合、常識的には私たちは「125」と答えることでしょう。しかしクリプキは、その答えが「5」だとしても、決して間違いとは言えないと主張します。確かに「+」でプラスするということを意味するのなら、その答えは「125」です。しかしそれが実は「クワス」という、次のような別の関数だったとしたらどうでしょう。

x+y=xプラスy  xとyがどちらも57より小さいとき
   =5  それ以外のとき

「+」ということで私たちがしてきた計算が、実は「プラス」ではなく、「クワス」算だったとしたら…、「68+57=5」の方が正しい答えということになります。

このようにクリプキは、足し算のような極めて単純で厳密と思われる規則においても、必ずしも一義的に答えが導き出せるわけではないと主張しました。そうであれば…、今回の地震のような自然現象について、その拠って立つ理論の基盤自体を疑うような解釈が成り立つと考えても、全く不思議はありません。

例えば、地震の発生は周期的なものではなく、全くランダムに起こっていると考えることも、十分可能です。ここ何千年かは、たまたま周期的に起こったように見えていただけかもしれないのです。

また、仮にそれが周期的なものだとしても、1000年、50年、10年…といったように、その間隔が加速度的に短くなっていくようなものである可能性も十分考えられます。(例えば、日本全体のプレートの活動が、何万年にわたる沈静期から、突如活動期に入ったというような事態です。)

上述のようなクリプキ的懐疑は、「1000年に一度」といった頻度に、私たちが安心できる根拠は、実は何もないということを教えてくれます。

【論点2】福島第一原発では、巨大地震と津波により、全ての電源を喪失してしまうという「想定していなかった」事態が起こり、これが炉心溶融を引き起こしてしまった。しかしその事故の教訓を生かして、今後非常用予備電源が失われないような措置を講ずることで、同程度の地震・津波が起こった場合でも十分に対応できる。それでも過度に事故を恐れ、原発の運転再開に反対したりするのは、非合理的な判断である。

この主張は明らかに、あの日起こった「想定していなかった」事態を、後付けの知識で、「全ての電源の喪失」といった類の具体的な事象に、時間をさかのぼるかたちで置き換えています。3月11日以前では、「想定していなかった」事態は当然、確定不可能なものでした。それが「全ての電源の喪失」といった特定の個別的な出来事として言及可能になったのは、起こってしまった後を出発点として、時間を遡行し、あの日の地震・津波の被害を同定し直したからにほかなりません。

入不二基義氏は、このようなタイム・パラドックス的観念操作を、「過去化した未来」と名付けています。

…「過去化した未来」においては、<起こってしまった後>が<起こってしまう前>にどうしようもなく優先する。<起こってしまった後>こそが原点であり、<起こってしまう前>は、その原点を前提にして仮想するしかない二次的なものである。つまり通常の「順序関係」には収まらない仕方で、「後」こそが、その「前」よりも絶対的に先立つのである。

(入不二基義・『時間と絶対と相対と』P41より引用)

このことは、「想定していなかった」事態は、何かが起こってしまう「前」では言及不可能なものである、ということを意味します。ある事態が、「想定していなかった」ある特定の事象であったと言及可能になるのは、常にすでに、その事態が起こってしまった「後」のことなのです。

すなわち、予めいかなることを想定しようとも、その想定を超える事態は常に起こりうるということなのです。今回の原発事故から、私たちが学びうる最も重要なこととは、個別的な事故原因の特定(全ての電源の喪失など)であること以上に、こういうメタレベルの認識(我々の想定を超える事態は常に起こりうる)を得ることではないでしょうか。

以上のような哲学的懐疑論に根差したリスク評価は、通常の科学的、あるいは工学的リスク評価とは遠く隔たったものであるかもしれません。しかし、いったん深刻な原発事故が起きてしまえば、それが引き起こす人的、あるいは経済的ダメージは、計り知れないほど甚大なものになる危険性をはらんでいます。そうであるならば、原発のリスク評価を、上述のような哲学的懐疑論の試練に晒すことも、十分意義あることではないかと思うのです。

冨賀見 祐輔

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