2011年7月1日、「社会保障・税一体改革成案」の閣議報告が行われた。この改革案の決定過程では、当初、目玉である消費税を2015年までに10%まで段階的に引き上げることを検討していたが、政権内の意見調整がつかず、最終的には、「2010年代半ばまでに段階的に10%まで引き上げる」という表現でまとまった。
政権内の意見調整がつかない背景には、いくつかの理由が考えられるが、その中の一つの理由として、インフレで政府債務の一部を帳消しにしようとする政治的思惑も関係しているように思われる。
だが、経済学では、「ノー・フリーランチ(ただ飯はない)」という言葉があるように、政府債務の償却のためのインフレがコストなしであるとは限らない。
むしろ、「インフレ税(Inflation Tax)」という概念があるように、インフレは税の一種であり、最近の研究では、インフレ税は「逆進性のある税」としての性質をもつことが注目されている。
参考)たとえば詳細は以下の文献を参照
・Easterly and Fischer (2001), “Inflation and the Poor,” Journal of Money, Credit and Banking.
・Erosa and Ventura (2002), “On Inflation as a Regressive Consumption Tax,” Journal of Monetary Economics.
インフレが「税」としての性質をもち、しかも、「逆進性のある税」としての性質をもつという現象を信じられないという方もいるかもしれない。しかし、上記のような専門的なジャーナルを読まずとも、この性質は直感的に理解できる。
まず、インフレの税としての性質は、貨幣の「購買力」の定義から簡単に把握できる。今年の物価がP(t)のとき、M円の貨幣の購買力は、M/P(t)=M÷P(t)で表現される。
手元に20万円をもっており、お米の値段が一袋5千円であるならば、40袋(=20万円÷0.5万円)のお米を購入できる。これが購買力である。
しかし、翌年に物価が高騰し2倍のP(t+1)になったとしよう。このとき、翌年には、20袋(=20万円÷1万円)のお米しか購入できない(注:20万円の貨幣を預金とかで資産運用せずに手元に保有している仮定があることに留意)。
つまり、インフレによって、貨幣の購買力が失われている。これが「インフレ税」にほかならない。購買力のM/P(t)を「インフレ税の課税ベース」と呼ぶときもあるが、インフレ税は記号で書くと、購買力の変化である「M/P(t)-M/P(t+1)」であり、初期の購買力はM/P(t)であったから、その税率は以下のように導出できる。なお、インフレ率をπとして、P(t+1)=(1+π)×P(t)が成立つとした。
インフレの税率=(M/P(t)-M/P(t+1))÷(M/P(t))
=1-P(t)/P(t+1)
=π/(1+π)≒π
上記は、貨幣保有に伴うコストのうち「インフレ税率」部分を意味する(注:この他、貨幣保有のコストとしては、貨幣を投資せずに保有する機会費用としての実質金利があり、通常、貨幣保有のコストはこの両者を合わせた「名目金利=実質金利+インフレ率」をいう)。例えば、物価上昇率が5%のときの税率は4.8%、物価上昇率が10%のときの税率は9.1%となる。
ところで、高インフレが予測される場合、上記のインフレ税率も高くなるから、手元に貨幣を保有しておくのは賢明ではない。その場合、多くの個人や企業は、インフレで名目金利も上昇することを見込み、当然、貨幣を銀行預金とかで運用することを検討するはずである。
しかし、銀行預金といった貯蓄の利子所得は20%の課税がかかる。他方で、株・金・不動産といった実物資産はキャピタル・ゲインが見込め、売却するまでは課税を繰り延べできるから、こういった状況では、インフレに強い実物資産の需要が高まる可能性が高い。
このように、インフレ税率が増大すると家計は金融資産よりも実物資産を選好することから、実物資産へ向かう投資を刺激する可能性があり、これを「トービン効果」という。
ただ、この場合に問題になるのは、インフレ・ヘッジのため、株・金・不動産といった実物資産を容易に購入できるのは、もともと多くの金融資産をもつ「裕福層」が中心であり、もともと金融資産や所得が少ない「中低所得層」はインフレに脆弱であるという視点である。
つまり、インフレは、「逆進性のある税」としての性質をもつのである。
なお、高インフレのときは、負債を多く抱える企業の借入コストも上昇するから、そのような企業では名目賃金の上昇がインフレに追いつかない可能性も高いだろう。
(一橋大学経済研究所准教授 小黒一正)