除染の前にLNT仮説の見直しを

池田 信夫

政府は福島原発事故の被災地の除染作業に取りかかるようだが、その前に何を基準にするかが重要な問題である。孫正義氏は、堀義人氏との討論でこう語っている:

先日国会でも児玉(龍彦)先生から発言がありました。感動的な内容でしたけれども、「イタイイタイ病」のカドミウム汚染。この土地の除染をするのに、国費の投入で1500ヘクタールで約8000億円かかったという話がありました。今回の福島の事故はその1000倍ぐらいになるのではないか。もし1000倍だとすると、800兆円。恐ろしい金額になる。800兆円本当に使っていいのかどうかは別として、そのくらい除染にはコストがかかるということです。長くて暗くてつらい作業だ。


これは本当だろうか。児玉氏は今月の『文藝春秋』で「どの程度の放射線で健康被害が出るかについては論争が続いているが、決着がついていないので安全側に倒し、早急に除染を始めるべきだ」と書いている。これはLNT仮説をめぐる論争のことで、テクニカルな問題だが、今後の除染を考える上できわめて重要である。

LNT仮説については、近藤宗平氏高田純氏など、広島や長崎の被爆者を調査した専門家が一致して「実証的な証拠がない」と批判している。実際のデータでは、図の実線のように100mSvで発癌率が0.5%高まり、それ以上で線形に増加するというデータはあるが、それ以下では発癌率が高まった事例がないのだ。

しかしICRPは1958年に、100mSv以下でも線形に発癌率が増えるはずだという(点線のように延長する)LNT(linear no-threshold)仮説にもとづいて1~20mSv/年という被曝限度を決め、それが今日まで続いてきた。これを見直すための国際会議が何度も開かれたが決着がつかず、行政的には安全マージンを見込んでLNT仮説が採用されてきた。

慎重派の代表が、米政府が2006年に発表したBEIR Ⅶ報告書で、LNT仮説に疑問があることは認めつつ、微量でも発癌率が高まるという研究が存在することを理由に、それを支持している。他方、同じ年に発表されたフランス政府の報告書はLNT仮説を否定し、ICRPの基準を見直すべきだとしている。

しかし両方の報告書を読むと、サーベイしている文献はほとんど同じだ。違いは胎内被曝と、ラジウム塗料を使う時計職人に年間10mSv以下でも発癌率の上昇がみられたという論文の解釈である。この原因は時計職人が放射性の蛍光塗料をなめる癖があるためで、放射線の被曝によるものではない、とアリソンは指摘している。

こうした例外的なケースを除くと、年間100mSv以下の被曝による統計的に有意な健康被害のデータは存在しない。これは遺伝子に、進化の過程で獲得した修復機能があるためと考えられる。一つの細胞で1日に100万個の分子が入れ替わるので、放射線以外の要因も含めて傷ついた遺伝子は除去されるのだ。

重要なことは、原爆のような急性被曝については、ほとんどの科学者が閾値の存在を認めていることだ。したがって今回の原発事故のような1回きりの被曝では、100mSv以下の被曝による健康被害はないと考えてもよい。内部被曝による影響は考えられないわけではないが、福島県の検査では生涯で最大2mSv程度で、まったく問題ない。

したがって福島事故については、年間100mSv以上の持続的な放射線が観測される土地に限って除染を行なうべきだ。そんな場所は原発のサイト外にはもうないので、除染費用は800兆円どころか800万円にもならないだろう。