「悪人」とは誰であるか --- 青木 勇気

アゴラ編集部

「悪人」とは誰のことを指すのか。このことについて考えたい。泥棒、詐欺師、殺人犯、腹黒い政治家、粉飾決算をした経営者…これらは全て「悪人」と呼ぶにふさわしいかもしれない。

では、彼らを悪人と呼ぶとき、それを決定付けるのは何であろうか。まずは、ルールとしての「法律」が大部分を占める。次に、こうあるべきであるという「道徳・倫理観」が来る。当然ながら、法を犯し、道徳に抵触する者は、「正しくない人」ということになる。こう考えると、彼らは間違いなく「悪人」である。


確かに、「悪人」はイメージしやすい。だが、「善人」はどうだろうか。上記に従い相対化すると、法を遵守し道徳的な言動を行う者は「正しい人」ということになり、「善人」ということになる。
しかし、これではおかしい。厳密に言えば、「悪ではない人」であり、絶対的なものではない。「~でない」ことは「~である」ことイコールではなく、AでないものをBとしたとしても、BでないことがAになるとは限らない。日常において、善良な市民と犯罪者というように善人と悪人のイメージは刷り込まれているが、これはあくまで善と悪と相対化された後での話だ。つまり、善良な市民は「悪ではない」というだけであり、絶対的に善であるということにはなり得ない。

明瞭なイメージを持つ不利な立場の「悪」とぼんやりとはしているが有利な立場である「善」。私は、この構図における「善」を訝しんでいる。「悪人」とは誰なのか、というタイトルは、逆説的に「善人」の危うさを問うということなのである。言うまでもないが、「悪人は本当は悪くなくて、善人こそ悪人なのだ」といったこととをわざわざ書くつもりはない。善の危うさが悪を浮き彫りにする現象が散見されるので、善悪を再定義したいのである。

法律や倫理・道徳により相対化される以前の「善悪」を考える上で外せないものがある。浄土真宗における核とも言える「悪人正機」の思想だ。そしてそれは、『歎異抄』の一節において端的に示されている。


善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

※『歎異抄』より引用


これは、「善人でさえ極楽往生できるのだから、言うまでもなく悪人はなおさら往生できる。しかし、世の人はこう言う。悪人でさえ往生できるなら、どうして善人が往生できないことがあるだろうかと」という意味だが、一見逆説的な言葉の中に鋭い指摘が隠されている。本来は「他力本願、絶対他力」についても論じなければ説明しきれない思想だが、ここでは端的にこの言葉の意味を解説するために、『歎異抄』における悪人と善人の定義をまとめたものを引用したいと思う。


衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない極悪人であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。

親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな極悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。

凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。

※wikipedia「悪人正機」の項より引用


【引用文内「仏の視点」についての補足】
「如来蔵思想」によれば仏性はすべてのものにあるとされ、その仏性を帯びるものを人間が食したり害したりすることは「悪」とされる。つまり、「今ここに生きている」ということ自体が悪となり、根本構造にかかわる悪であるということになる。人間は、殺生や競争により他者を“排除”することは避けられず、常に悪性を帯びなければ生きられないからだ。

上記をふまえると、悪人、善人、凡夫という三者が登場するが、これらは皆「悪人」に帰結する。もっといえば、善人などはどこにもおらず、人は皆おしなべて悪人であり、それを凡夫と呼んでいるのだ。この場合に強いて善について語るならば、ソクラテスの「無知の知」のように、自らを存在論的に悪性を帯びた凡夫であると自覚してはじめて見えてくるものと言えるだろう(原則的に、自らを善と語る者は自己矛盾を起こすことにはなるが)。

では、この「悪人正機」の思想から得られる教訓とは何だろうか。それは、「善」を疑わない状況が孕むリスクだ。つまり、ある対象に「悪」のレッテルを貼り、あっち側とこっち側の間にラインを引くことで、ほとんど盲目的に自らを「善」としてしまうということである。少なくとも、それが「悪」であることは疑わない。この確信こそが危険なのだ。

「原発推進派」という「悪」と「原発反対派」という「善」を描き出し、議論することなどはわかりやすい例である。命の尊さを守るという「善」とそれを脅かす「悪」という前提からスタートする前に、そもそも「原発推進派でないことが善であるとは限らない」ことを自覚する必要がある。

もちろん、批判的意見を述べるのは自由だ。ただその場合は、善人、悪人という立場を設けることなく、一人の“凡夫”として発言すべきなのである。善と悪という結論を出した上での議論はすでに議論ではない。そして、「悪人」とは誰なのかを決めるのは「善人」ではないのだ。

青木 勇気 フリーランス
「Write Between The Lines.」