「反ハシズム」は「ゆでガエル」症候群だと感じた

大西 宏

報道ステーション・サンデーでの橋下市長と山口二郎教授の対談、また朝まで生テレビでを見ていてつくづく感じるのは、「反ハシズム」を唱える人たちに感じるのは、現実に起こっている問題への認識のなさ、また解決への具体策のなさです。おそらく呆れ果てた人々も多いと思いますが、しかも不思議な組み合わせでした。まったく思想が相反する共産党から自民党、学者、ジャーナリストまでが、反ハシズムで共闘するという前代未聞の大政翼賛会となっています。なんら具体的なビジョンや政策で異を唱えるのではなく、各論や、言葉の端々をあげつらうだけです。
しかしひとつだけ共通したものを感じることがありました。変えたくない、変わりたくない、変えるにしても緩やかなものにしたいという思いが、共産党から自民党にいたる人たちの根っこにある心情として浮き上がってきたのです。現状の危機から目を逸らし、あるいは口にはしても、現状の居心地の良さから抜けだせない「ゆでガエル」現象をそこに感じてしまいました。


「ゆでガエル」の例えは、1970年代に第一次オイルショック、第二次オイルショックに見舞われ、日本の経済成長に急ブレーキがかかった直後、1980年ぐらいに広がりました。「ゆでガエル現象」とは、いきなり熱湯に投げ込まれたカエルは、あわてて逃げ出すけれど、徐々に温めていくとカエルはその心地よさで、やがて茹で上がって死ぬというものです。

当時、日経が出した「企業の寿命30年説」も、センセーショナルなものでした。高度成長期の発想や体質を変革しなければ、やがて企業にも寿命が訪れ、滅びていくことをさらに警鐘するものとして大ヒットします。同じ発想です。その企業寿命30年説が正しいかどうかは別問題ですが、当時世界の市場を席巻し、隆盛を誇っていた日本の家電は、30年以上後の今、総崩れとなっています。

大阪の経済が長期にわたって衰退し、事業所も減り、さらに人々の所得が減少し続け、財政も破綻寸前まで追いやられても、現状を変えることに抵抗感がある人たちが存在するのです。しかも現実よりも、思想や好き嫌いのほうを大切としているように思えます。

また、大きく仕組みを変えることではなく、小さな改善をやっていけば良くなるという楽観主義です。もし、大阪の経済や社会に再び活力を取り戻すことなる対案やアイデアがあれば、それを示せばいいのですが、とくに現状に対する強い危機感がないために、ただ批判するだけです。よほど居心地がいいのでしょうか。

そしてまともな反論ができないのは、維新の会が掲げている政策は、とくに目新しいものというよりは、従来から言われていたオーソドックスなものを集めたものだからだと思います。
堺屋太一さんの道頓堀に長いプールをつくることなどの10大イベントは、さすがに堺屋さん流の古い発想を感じますが、活力ある大阪の象徴となり、人が集まる象徴的事業が必要なことはいうまでもありません。それも現実には、きっと吟味され、新しいアイデアもでてくるものと思います。公募してもいいのかなと思います。いずれにして万博記念公園の太陽の塔も、当時はよくわからないバサラみたいなものでしたが、いまでも存在感をもって、人々が集まるシンボルとして残っています。

しかしそれが維新の会の無能だとして煽るプロパガンダがいます。地元では、そういったプロパガンダへの反発から、もともとは橋下市長には違和感のあった人も、支持に走る構図が生まれてきているように感じますが、皮肉なことです。もしかすると裏応援隊なのかもしれません。しょせん各論での批判しかできないほうがはるかに質が悪いということに気が付かないのでしょう。
大阪府市統合本部の無能がまた露呈 特別顧問堺屋太一氏提案の大阪10大名物のトンデモぶり!(宮武嶺) – BLOGOS(ブロゴス) :
さて、共産党から自民党までの大阪で発生した大政翼賛会に人々の支持が広がることはありません。理念も、ビジョンもなにもないからです。しかし、それは同時に思想による政治の終焉、従来の政治思想の無力さを象徴するものだったとも言えそうです。

現代は、保守とか革新という過去に生まれた思想の延長からだけでは解決でない課題がつぎつぎに生まれてきます。国家財政をどう立て直すか、医療、年金、介護などの社会保障体制をどう維持するのか、機能不全に陥った中央集権、一極集中体制をどう変えるのかなどは、創造的な解決方法が必要なのですが、それを生み出せない状況が続いています。思想は思考停止の弊害すら生んでいるのではないかとすら感じます。

いまはかつての社会党や社民党などの革新勢力は事実上は壊滅状態で、その流れの人たちも、保守のなかに潜り込んでいるというのが実態でしょうが、しかし保守の流れをくむ政党、また保守を自認する人々も、現実的な課題に対しては、考え方の違いが大きく、まとまりません。
保守といっても、それこそ国粋主義的な人もいれば、農村を守ることが日本を守ることだと考える人もいます。さらに社会民主主義的な人も、自由主義的な人も、さらにそれを極端化したリバタリアン的な人も混じり合って、なにがなになのかよく分からないままに、各論になるとまとまらず意見の対立が起こってくるのがいまの保守政党です。

だから政策も現在の統治のしくみを前提とした対処療法になってきます。新鮮な発想が生まれてこず、現実は政策の実行力を互いに競いあうだけになっているのだと思います。もはや現実的にはかつての思想は、ほとんど意味を持っていないにもかかわらず、いまだに保守、革新に拘る人は、橋下新市長の思想を問うのです。それが現実問題からの逃避でしかないにしてもです。

昨今はようやく一部では指摘され始めていますが、いまは円高が問題視されていますが、むしろ冷静に考えれば、日本にとっての、最大のリスクは円安と国債の暴落だと思っています。日本には、ソブリンリスクはやってこない、そんな楽観論がありますが、神話にしかすぎません。もしその危機がやってくれば不況どころではありません。日経に米サブプライム危機を予見したカイル・バス氏へのインタビュー記事がでていましたが、荒唐無稽な話ではないと思います。
日本国債バブル「18カ月以内に崩壊する」  :日本経済新聞 :
そんなリスクが現実とならないことを祈るのみですが、そのリスクへの対処を考えるのが政治です。さまざまな課題に対して、対処療法では声は一致しても、根本的な構造問題からくる問題には手をつけることができないことが、日本のリスクを高め、さらに閉塞感を深めることになっています。

また経済界からもでてくるのは対処療法だけです。マスコミもそうです。円高対策と輸出拡大を歌った社説が象徴するように、円が高くて困っているから為替介入しろ、貿易赤字になったから貿易を拡大せよと対処療法を並べているにすぎません。
貿易赤字 輸出拡大の戦略を強化せよ : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞) :

現実の課題を解決できない思想は無力です。保守でも革新でもなんでもいいのですが、現実的な解を生み出し、国民的な合意を取り、それを実行に移す能力のほうがはるかに重要になってきています。ヨーロッパに社会民主主義政党が残っているのは、現実問題を直視してきたからでしょう。だからイギリスの労働党もアメリカと同調路線を歩んできたのです。

政党もそれで再編されるべきでしょう。しかし、機能不全になった国政を立て直すには膨大な時間を擁し、またその再編を促進するリーダーも見当たりません。新党といっても、消費税問題で相容れない考え方をもっている石原都知事と、亀井さんが一緒になるのでは、選挙を睨んだ野合としか映らないのです。

対処療法も進めるべき問題はあるとしても、日本の構え、しくみを変えるためには、地方を立て直すことのほうが早く、また国民にとっても「我が事」と実感できるのでより、議論も真剣になり、人々の知恵や合意を集めることも可能です。まずは地方主権化を急ぐことだと思います。

自民党が、「自助、共助、公助」の理念を掲げていますが、理念とした正しくとも、実際に「共助」を担う地域コミュニティの再生の道筋を示せなければ、社会福祉費をカットするためだけに終わってしまいかねません。思想よりは創造性を競い合う時代に、はやく発想を切り替えてもらいたいものです。現状の居心地のよさが将来ともに続くという楽観主義に惑わされ、やがて日本が「ゆでガエル」になってしまうことだけは避けなければなりません。