安楽死法 ‐ 死を選ぶ権利 --- 駒沢 丈治

アゴラ編集部

もしすべての人に生存権があるならば、当然、それを放棄する権利もあるはずだ。放棄することが許されないのなら、それは「生存権」ではなく「生存義務」になってしまう。人は義務ではなく、権利として生きているのではないのか? 生は尊いものだが、だからといって誰かに生きることを強要することはできない。

たとえば仕事を失い、家族も無く、貯金も無く、その上猛烈な苦痛を伴う不治の病に掛かってしまった50歳が自らの死を望んだとき、いったい誰に止められよう。「がんばって生きましょう」と口で言うのは簡単だが、無責任に過ぎると思う。


貧困や重病、絶望的な老後など……理由はそれぞれだが、この世には「死にたがっている人たち」がたしかに存在する。ならば、彼らに苦痛の無い安らかな死を与える「サービス」がそろそろ必要なのかもしれない。

本気で死にたがっている人たちを止めることはできないし、無理に行き場を奪えば危険な事故につながることもある。個人が自らの意志で安らかな死を選ぶことができれば、ある意味、これが最後のセーフティネットになる。

病院で医師に見守られながら苦痛を伴わない安らかな死を得られるとしたら、わざわざ山手線に飛び込んだり、硫化水素を発生させたり、ビルの屋上から飛び降りようという人は少なくなるはずだ。本人にとってはもちろん、周囲の人たちや社会にとっても、そのほうが好ましい選択であると思う。

末期医療の現場においても、安楽死は意味を持つ。死が避けられない、ただ死を待つだけの患者を集中治療室に入れ優秀な医師のリソースを消費するのは、社会全体にとって大きな損失だ。高度な医療設備は回復が期待できる患者にこそ利用すべきであり、優秀な医師もまたその存在によって生死が分かれるギリギリの現場に投入してこそ意味がある。

死が避けられない患者に対して使用する医療費も、家族にとっては意味があるかもしれないが、社会から見ればムダ以外の何ものでもない。その費用を他の患者に使ったほうが、よほど有効だ。

本人の意志、本人に意識がない場合は家族の同意によって安楽死を選ぶことが出来れば、医療設備や医師のリソース、治療コストをムダにすることなく「負担を軽減する」という形で社会に貢献することができる。

生が「義務」ではなく「権利」であるならは、人には生きる権利と共に「死を選ぶ権利」があるはずだ。生きる権利を認めながら死を選ぶ権利を認めない社会というのは、一見人道的に見えるが、実は非人道的だと思う。死を望む人に生を強要する権利は、誰にもない。

もちろん安楽死など必要がない社会……自ら死を望む人などいない社会が望ましいのは当然だが、残念ながら現実は違う。いまそこに死を望んでいる人たちが存在し、それによって社会に混乱や負担がもたらされるのであれば、やはり現実的な対応が必要なのではないか。

駒沢 丈治
雑誌記者(フリーランス)
Twitter@george_komazawa