なぜ、「東浩紀」は理解されないのか

青木 勇気

『一般意志2.0』が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビューを読んだ。筆者自身、『一般意志2.0』を手に取りしばし逡巡した後本棚に戻したクチだが、東浩紀氏自ら『一般意志2.0』で伝えたかったことやその背景について語っており、「やっぱりちゃんと読まなければ」と思い直すほどに読み応えがあった。

ただ、ここで『一般意志2.0』を読んでもいない人間が中身の話をしても仕方がないので、

哲学・思想の文脈だけで話をしていると議論が広がりを持たないので、そこは一般読者にも読まれるように努力しました。

と「理解できるよう努めた」にもかかわらず、

それにしても、これ、全部本のなかに明示的に書いてあることなんです。それなのにそう読まれていない。何故こんなに誤解されているかわかりません。

というように「理解されない」理由について述べたいと思う。


 
まず、東浩紀とは何者だろうか。Twitterアカウントのプロフィールを見ると、こう書いてある。

思想家/小説家。物書き/ネットユーザー。

インタビュー記事にもあるように、東氏は「思想家」なのである。では、思想家とは何者か。Wikipediaによると、思想家とは様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人である。語弊があるのを承知で言うなら、基本的には「言いっ放しの人」だ。

「東信者のバカが何か言ってるぞw」などと揶揄せずに読み進めていただきたい。ここで躓いている方も多いと思われるからであり、タイトルに「東浩紀」とカギ括弧を付けたのは、そもそも何者なのかを理解する必要があるからだ。東氏自身ジャーナリストでも政治家でもエンジニアでもないと言っているが、別の役割を期待し背負わせようとするから論点がズレる。

小説家であり、ネットユーザーであるとしても、東浩紀氏はここではあくまで「(現代)思想家」なのであり、これを前提に『一般意志2.0』を読むべきなのである。もちろん、それだけで正しい解釈、的確な批判の域まで到達できるわけではないが、少なくともこの時点では躓くことはない。

以上が「わかりやすい理由」である。では次に「わかりにくい理由」について。

一言でいってしまうと、東氏が「希有な存在だから」である。図抜けた慧眼の持ち主という意味で希有だとも言えるが、それ以上に9万近くのフォロワーを抱えていることが普通ではない。もちろん、フォローされるに値しないという意味ではなく、単純に思想家が「Twitterにおける有名人」になっている時点でおかしいという意味だ。

だが、Twitter経由で東氏の存在を知り、つぶやき内容からうかがえるオタクな部分などを根拠にイメージを固めるといったことが現に起きている。おそらく、ほとんどの人が東氏を思想家としてではなく、「ネットユーザー」としてフォローしているのだろう。

つまり、“本来いるはずのない人”をフォローし、ツイートを追っているのだから、思想家としての東氏を理解できないのは当たり前なのである。主にソーシャルメディア経由で情報を収集している人の中で、哲学書や思想書を読む人はどれくらいいるだろうか。さらに、東氏をフォローし、『一般意志2.0』を読み、ルソーやフロイトに関して含蓄があるという人が。まずいないと言えるだろう。

「ネットユーザー」としての東氏をフォローする理由は何であっても良いが、「思想家」としての東氏を理解し批判するにはそれなりの器量が必要となる。いたって単純な話だが、意外と見落とされているように思う。

ただ、東氏は読者側に歩み寄っている。そもそも哲学書や思想書は一般読者を想定して書かれるものではないが、東氏はあえてそれをやっているのだ。皮肉なのは、「哲学・思想の文脈だけで話をしていると議論が広がりを持たないので、そこは一般読者にも読まれるように努力しました」と言っているにもかかわらず、誤読されることである。

ニコニコ動画の件なども現にあるものを例に挙げてイメージしやすいように語っているだけなのに、「ニコニコ動画のコメントやTwitterの声を拾い上げて政治に反映せよ」と主張していると短絡的に解釈される、これはガッカリするのも無理もない。一般読者を想定して書くこと自体は非常に意義深く、また希有な存在であるが故に読者層を広げることに成功したが、普遍的に理解されるまでには至らなかったのである。

最後に、若干ルサンチマン的な意味も込めて、理解されない理由をもうひとつ。それは、東氏のこの言葉の中にある。

日本では、経済・ビジネス系の人たちが、人文系の人間を軽蔑しきっている。国力が低迷しているいまこそ、理念というものの現実的な力を日本人は少し考えなおすべきだと思います。

原則的に、経済・ビジネス系の人たちにとっての成功者や憧れの的は、「何かを成し遂げた人」であり、「とにかく考え続ける人」ではない。確かに、スティーブ・ジョブスはすごい経営者だ。リスペクトされるのも当然かもしれない。ただ、それは画期的で魅力的なApple製品を手に取ることができるからではないだろうか。いくら彼自身が素晴らしい理念を持っていたとしても、製品がなければここまで神格化されることはない。

一方、人文系の人間というのは明らかに魅力的な存在ではない。なぜかというと、抽象的なこと、目に見えないことについて、考え、話す(書く)人たちだからだ。基本的に「何を言ってるかわからない人」であり「何も生み出さない人」なのである。憧れの的でないのは当然だ。どうしても、別の世界の住人として扱われることになってしまう。

思想家とは本来そういう存在だと思われるが、内容や文脈の理解よりも先に「で、それは何なの?」「それをやってどうなるわけ?」という話になる。冒頭で述べた通り、思想家は具現化する人ではない。一般意志を可視化する装置についての話をしながらも「それはこれです」と提示できないのは、無能だからではなく、それがまだ理念だからである。「じゃあお前が実際にやってみろ」と恫喝するのはナンセンスであるし、こういう反応が何よりも思想家が理解されていないことを示す。そして、それ故に思想家の存在価値は貶められることになるのだ。

少なくとも、読み手は「今、何について話して(書いて)いるのか」についていく努力は最大限するべきだろう。これは知識、読解力の有無以前の話であり、人文系の人間へのリスペクトの有無の話である。確かに「東浩紀」は理解しにくい存在かもしれない。だが、「東浩紀」を理解できなければ、決して「理念というものの現実的な力」は見えてこないのだ。

しかし、それでも東氏は軽蔑されていない部類に入る希有な存在でもある。本来は身近なところにいるはずのない思想家としての資質を持ちながら、Twitterで様々な層のフォロワーを抱えるなど、インターネットの世界でも一定の評価を得ている。東氏からしたら甚だ迷惑な話かもしれないが、別の世界のもの同士を繋ぐ「媒体者」として非常に重要な存在とも言えるのではないだろうか。たとえば、政治に無関心な人たちと政治を。経済・ビジネス系の人たちと思想書を。

長々と書いてきたが、結局のところ理解されない最大の理由は、なぜ『一般意志2.0』を書いたかを根本的な部分で分かっていないからかもしれない。お金のためだったら思想書など書かない。東氏は思想書しか書けない(書かない)研究者でもない。

では、なぜか。それは、純粋に「世の中を良くしたい、良くしなければならない」という思いがあるからだ。そこに思想家としての崇高さがある。批判するにしても、ここに対するリスペクトを外してはならないだろう。

青木 勇気
@totti81