「建国記念の日」の意義

2012年02月13日 08:00

一昨日の2月11日は「建国記念の日」だった。この日は戦前において最も大きな国民的祭日であった「紀元節」と同じ日で、神武天皇が即位したと推定されている日に当たる。この日を「建国記念の日」とする事については勿論多くの反対意見もあったが、国民の大勢はこれを支持し、「憲法記念日か講和条約締結日を建国記念日とすべき」とか、「そもそも建国記念日等は要らない」という人達の意見は斥けられた。

私は、毎年いつも大きな感慨を持ってこの日を迎える。そして、若い人達に対する歴史教育の重要性について、あらためて思いを馳せる。この様に言うと、多くの人達は、私を巷に数多くいる「懐古的な右翼老人」の一人だと勘違いされるかもしれないが、実は私の考えはその正反対なのだ。私は、この日を、一時期の日本人に大きな勘違いをさせて日本を悲劇に追い込んだ「皇国史観」の誤りを明確にし、歴史を「集団的な感情(愛国心)」や「国家的な策謀」から完全に自由な「科学的で公正な学問」として見詰め直す好い機会だと考えている。


「肇国の精神」「万邦無比の国体」「祭政一致」「現人神」等と言う言葉に代表される「皇国史観」は、明治・大正時代にはなかった。日本人の国を愛する気持や、自らを犠牲にしてでも国の為になりたいと願う気持、更には天皇を崇敬する気持は、明治・大正時代にも勿論確固として存在していた。しかし、その気持を「皇国史観」という「非科学的で独善的な理念」に固定化して、有無を言わさず全国民に叩き込んだのは昭和初期の事だ。時の為政者達が、「米国などを排除して大陸での利権を独占する」という強い意欲に駆られ、このような「史観」で国民の心を一つにまとめようとしたのだろう。

1月30日31日に連載された渡邊斉己さんのアゴラの記事は、通常は「軍部の暴走」として簡単に片付けられがちな昭和初期における急速な右傾化の元凶が、実はライバルである民政党を蹴落とそうとした政友会の政治家達だった事を喝破している点で、興味深い記事だった。

後々軍部の独裁を許さざるを得なくなるに至る原因を作ったのは、この時代の二つの大きな事件だった。その一つは、幣原外交を「国辱外交」として難詰する為に作り上げられた「統帥権干犯事件」であり、もう一つは、「天皇機関説排撃の動き」だったが、この二つの背景には政友会の暗躍があった事は明らかなので、「二大政党制の下での党利党略が国家の方向を大きく曲げてしまった」とする渡邊さんの論旨は頷ける。

昭和天皇は英国流の「立憲君主制」の信奉者であられ、平和主義者でもあられたが、陸軍が範としたプロシャのモルトケによって導入された「統帥権独立」の思想によって、いつの間にか「実質的な絶対君主」に祭り上げられてしまった。美濃部達吉博士が提唱した「天皇機関説」も、それまでの30年間に学界と政官界で定着しつつあった極めて常識的な考えであり、昭和天皇ご自身も「それでよいのではないか」と仰っていたと伝えられているが、そのような事は全く無視され、いつの間にか「天皇の神聖を犯す、とんでもなく不敬な言説」というレッテルが貼られてしまった。

「皇国史観」は、まさにこの「天皇機関説排撃」の流れの上に形作られたものだった。昭和10年に貴族院と衆議院で「機関説排撃・国体明徴」決議案が可決されると、その後政府は二度にわたって「国体明徴声明」を出し、この流れに乗って、これを支える「皇国史観」はいつの間にか国民精神の確固たる支柱になってしまった。(それ故、日本は、無条件降伏を受け入れる最後の最後まで「国体の護持」に拘り続け、連合国側が受け入れたかも知れない「他の条件」等は考えてみた事もなかったのだ。)

法制度の基礎を理解していない一般の国民にすれば、「天皇は国家法人である」等と言われても何の事やらさっぱり分からないし、「天皇は神聖であり、絶対的な存在だ」と言われた方が余程分かり易いだろう。そして、「2600年もの間、万世一系の天皇が統治してきた国など世界に例がなく、これこそが日本人が選ばれた民族である証左だ」と言われれば、悪い気はしないだろう。だから、たまに誰かが学問的な見地からこれを否定するような意見でも言おうものなら、「とんでもない奴だ」ということで袋叩きに会うのも致し方なかったわけだ。

それでは、「皇国史観」のどこが問題だったのかをここで明らかにしておこう。第一の問題は、それが「学問(人文科学)」とは言えないものだった事だ。科学としての「歴史」は、本来は「真実の追究」でなければならないが、「皇国史観」にはその精神はない。重要なのは、「国民が何を信じれば国家の為になるか」という事だけであり、「真実」等はどうでもよかったのだ。だから、この目的の為に都合のよい事実関係は、概ね誇大に、場合によれば歪められた形で取り上げられ、都合の悪いものは完全に黙殺された。

第二の問題は、この「史観」があくまで日本中心のものであり、日本人にとっては心地よくても、他国の国民にとっては嬉しくないものであった事だ。自らを「優れている」と言うのは、ほぼ必然的に他の人達を「劣っている」と言うに等しい。自らの考えを「正」とすれば、これと違う考えは必然的に「邪」となってしまう。これは何もかつての日本に限った事ではなく、どんな国にもそのような傾向が拭い難くあるのが常だが、「皇国史観」においてはそれが特に極端だった。

「八紘一宇」という言葉がある。ある人達は「これは当時の日本が中国を始めとするアジア諸国を『侵略』するのを正当化する為に使ったものだ」と言うが、別の人達は、「とんでもない。これは日本書紀の中の神武天皇の業績について書かれたくだりに出てくる言葉で、『四囲の人々は皆一つの屋根の下に住む家族の様なものだ』という主旨だ。当時の日本が提唱した『大東亜共栄圏』もこの精神に基づいたものであり、アジアの諸民族を欧米の植民地主義のくびきから開放して一つの家族に纏め上げようとしたものである。何も疚しいものではない」として、真っ向から反論する。

しかし、何時までもこんな議論をしているのは全く馬鹿げている。何故なら、両方ともが正しいからだ。「八紘一宇」は元々よい意味の言葉であり、「大東亜共栄圏」も元々は理想主義的な考えであった。しかし、実際に当時の日本が日本の国外で行った事は、多くの地域で支持を得られなかったし、「あからさまな侵略行為」と見做されて憎悪の対象になった国も多い。現実は理想通りには行っていないのだ。日本側では「あなた方の為にやった」と思っていても、相手の立場から見ればそうはならない場合が多い。要するに、日本が他国で行った事の評価については、その国の人達の考えを尊重するべきであり、日本国内で独善的に自己評価するのは妥当ではない。

「建国記念の日」に因んで古代史の話をしようと思って書き始めた記事が、現代史中心の話になってしまったが、遠い昔のことを研究する古代史の分野でも、各国が「自分達の優位性」を主張したいばかりに、事実関係を捻じ曲げようとしたり、感情的な議論をしたりしている事が多い。この様な現実は何とも情けない限りだ。

国と呼ばれる程のものがなかった縄文時代の日本においては、人々は小さな部落ごとに分かれ住んでいたので、少人数の人達が色々な技術や文物を持って小さな舟で漂着しても、これを排斥する力もなく、またそういう意識もなかっただろう。一方、この時期は、中国大陸で軍事力を蓄えた支配者が次第に周辺地方へと勢力を拡大し、これに押されたその地方の支配者がより辺境へと追われていった時期でもあった。その事から想像出来る種々の可能性は、現在の日本人から見れば、歴史のロマンを感じさせる事でこそあれ、恥ずかしい事でも何でもない。

具体的な話をするとこうだ。当時の中国人が「濊」「貊」等と呼んでいた人達が、この頃、現在の中国の遼東半島から吉林省の辺りに「扶余」「高句麗」等の国を作り、これ等の国はしばしば「漢」と抗争した。抗争に敗れた多くの人達は、南に移住して、そこに住んでいた「韓」族と合流し、「百済」や「新羅」等を建国した形跡がある。そして、その一部は、日本海を渡って日本列島に漂着したかもしれない。更に時代を下ると、「百済」と「新羅」に圧迫された「弁韓(加羅)地方」の人達や、朝鮮半島内部での内部抗争を嫌った人達が、海を渡って日本の北九州や出雲地方に移住してきていた気配が濃厚だ。

この頃からずっと後世に至るまで、中国や朝鮮半島の人達は日本の事を「倭」と呼んでいたが、「倭人」もかつては朝鮮半島の住人だったと考える学者(東北大学の井上秀雄名誉教授等)は数多い。中国の古書を徹底的に読破された在野の歴史家、山形明鏡先生などは、古代の中国及び周辺の諸王朝の歴史書のあらゆるところに登場している「倭人」が、遠い日本列島から来たとは到底考えられず、「倭人とは朝鮮半島の海岸地帯に住んでいた、韓族とは若干異なった人達だった」と推測しておられる。

古代における朝鮮半島と日本列島の諸王朝間の関係は、東アジアの古代史を俯瞰的に理解する上で極めて興味深いテーマだ。朝鮮半島西南部に位置し、一時は海を越えて遼東半島の南部までも勢力圏に入れていたと思われる強国の百済が、高句麗や新羅と対抗する為に、大和朝廷に対しては常に下手に出て友好関係を築こうと努力していたのに対し、より日本に近い朝鮮半島の東南部に位置していた新羅は、ほぼ恒常的に倭人との抗争を繰り返していたようだ。これは何故なのだろうか?

日本書紀の「神功皇后の三韓征伐」のくだりは、「強力な大和朝廷が海を越えて無礼な新羅を懲らしめた」という筆致で書かれているが、長年にわたって繰り返された倭との抗争をかなり詳細に記載している新羅の歴史書の筆致は、当然の事ながら全く異なる。

自然に恵まれた日本列島の中になお多くの拡大余地を持っていた大和朝廷が、わざわざ海を越えて新羅との抗争を繰り返さなければならない理由は乏しいから、そこにはもっと異なった何らかの理由がある筈だ。新羅の歴史書に書かれている倭人とは、「ずっと昔に日本列島に移住していた韓人達が混血したか、或いはその時点で影響力を行使出来た倭人達(朝鮮半島内の残存倭人を含む)」であった可能性がかなり高い。(もしこの解釈が正しければ、新羅と倭との抗争は近親憎悪に近い抗争であり、その逆に、百済と倭の友好関係は、ギブ・アンド・テークの政治的なものだったと言える。)

私がここでこんな事を長々と書いたのにはそれなりの理由がある。これからの歴史の研究や、若い人達への歴史教育では、常に俯瞰的、複眼的な視線に立ち、且つ、「近隣の民族間では常に血が混ざり合っている可能性が強い」事をよく認識し、「民族間の優劣」を競い合うが如き「史観」はお互いに排除していく事が重要だと言いたいのだ。全ての事実を事実として冷静に認識し、ここに「正・邪」や「優・劣」の感情を交える事は忌避すべきだ。

世界中の全ての民族は、強弱の差こそあれ、それぞれに何等かの「民族意識」を持っている。そして、「民族意識」があるからには、必ず「民族としての誇り」が重要な価値判断のファクターとなる。しかし、その「民族意識」が、他の民族に対する敵愾心や憎悪になったり、「民族としての誇り」が、他民族への蔑視になったりしてはならない。将来の世界のあるべき姿を考える時、世界中の若い人達には、あらゆる機会を捉えてこの事を訴え続けていく事が必要だと、私はいつも強く感じている。

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