それはないよ、橋下さん! ―「入れ墨は首、それが駄目なら消させよ」発言

北村 隆司

橋下市長は「入れ墨職員は首、それが駄目なら入れ墨を消させろ」と述べたそうですが、「入れ墨」きらいの私でも「それはないよ!」と言いたくなります。

驚く事に、市長の怒りは更にエスカレートして、「採用後の入れ墨はおかしい。あなた方の価値観は狂っている」とぶちまけ、「僕が市民に代わって、不適格の職員はどんどん分限免職にする」等と言うに至っては、市長個人の価値観を公権力を使って他人に強制するに等しく、民主国家の基本中の基本を無視した暴言です。

大阪市の、職員条例、教育条例、国歌起立条例や、組合の行き過ぎ是正を目的に行ったアンケートに賛成して来た政治家・橋下徹ファンの私ですが、この発言を許す訳には参りません。


現行法では「入れ墨」は法的に何ら問題ありません。「入れ墨」を理由に職員を懲罰に課したいなら、先ず「入れ墨」を非合法化すべきです。ぶれない事が強みの橋下市長でしたが、「法律に触れない物は何をやっても良い」と言う年来の主張は、一体どこへ行ったのでしょうか?

「公務員に入れ墨を許す国がどこにある」とも言われたそうですが、欧米では「入れ墨」をした警官や消防夫、軍人などはざらです。

余談になりますが、米国で連邦予算局長、労働長官、財務長官、国務長官を歴任したジョージ・シュルツ氏は、母校プリンストン大学のシンボルである「虎」の入れ墨をお尻にしている事は有名な話です。

法律に疎い私ですが、この問題に関する限り、市長の言動は憲法が保障した国民の基本的人権への公権力による侵害としか思えません。又、条例で職員の「入れ墨」を禁止する事も、憲法第11-14条の障碍を乗り切れるかどうか、甚だ疑問です。

「入れ墨」問題の様な表現の自由に関連するものは、条例を含む公権力の圧力行使には馴染まず、教育、広報活動を通じて社会的通念を変えるしか道はありません。

これを機会に、橋下市長に撤回して欲しい事が他にもあります。それは、職員に出したアンケートの内容と野村弁護士が出した廃棄理由です。

組合の行き過ぎの有無を調べる目的で行ったアンケートそのものは支持してきた私ですが、アンケートの質問内容は、国民の基本的人権に公権力で介入した疑いが濃く、違法とまでは行かないとしても、極めて不穏当です。

報道では「府労委の結論を待っていたのではアンケート結果を使えない、そこで、私の責任で廃棄したい」と言う野村弁護士の事務的な発表で一件落着を図った観がありますが、この様な重要問題を事務的に処理する事は、従来の官僚的な手法と変らず、私は承服出来ません。

むしろ、橋下市長自ら「今回の様なアンケート調査は、必要とあれば今後も行うが、今回の質問内容には公権力と基本的な人権との間に、微妙な問題がある事に気がついたので、この質問内容はお詫びして廃棄する」と発表すべきでした。

討論に強い事が橋下市長当選の決め手となりましたが、その第一の理由は、弁護士時代に鍛えた技術ではなく、常に根本課題をめぐる論理を構造化して「何を論じるべきか」を考える能力が抜群だからです。

この論理的で新鮮なアプローチが、自分の主張より討論相手の過去や言葉使いなどを批判する傾向の強い日本的スタイルを、自滅させてしまったのです。

第二に、討論では欠く事の出来ない「アドヴォカシー」と言う、「特定の立ち場に立って、そのあるべき姿を代弁する」能力を身につけている事です。この欧米的なスキルを海外留学経験もない橋下市長が身につけ、海外留学豊富な学者が全く理解していないのは、滑稽にすら見えました。

山口二郎、香山リカ、薬師院仁志各教授の様な、橋下市長の「弱敵群」の中では「掃き溜めに鶴」的な存在の内田樹教授は「アメリカ人は、国が上手く機能しなくなると『そもそも何の為にこの国を作ったのか』と建国の原点に立ち返って考える事が出来るが、理念に基づいて作られていない日本は、立ち帰る原点が無い」と書いて居られますが、橋下市長が「市民が立ち帰るべき原点」を示した事が、他の政治家と根本的に異なる点です。

その原点とは、透明性を維持し、公権力の横暴を抑えて基本的人権を守り、決定権を出来る限り市民に近い処に移し、物事を早く決められる「新しい統治機構」の確立でした。

余り重要には聞こえない「入れ墨」発言や「アンケートの質問内容」は、橋下市長の原点に関わる基本的問題で、「公権力乱用」に拘る重要問題です。

「論理的かつ構造的に考える(クリテイカルシンキング)」能力に優れる橋下市長は、変化に即応して考え直せる能力もお持ちの筈です。是非反省して、これ等の言動を訂正して頂きたいものです。

北村 隆司