橋下改革が弱者切り捨てに見えるのは既存マスコミの機能不全が原因だ --- 倉本 圭造

2012年04月11日 07:30

まだ現在進行中のようですが、橋下徹氏と池田信夫氏の議論には非常に触発されるところがありました。

私は関西出身(地元は神戸ですが、会社員時代に大阪の橋下氏の生家の近くの地域に住んでいたこともあります)ということもあり、細かい政策的議題は抜きにしても、橋下改革については「やっぱアレぐらいやらんとアカンのちゃうの?」的なシンパシーを常々持ってはいたのですが、彼の連続ツイートを拝見させていただき、直接的で真っ直ぐな、しかし「実現可能な知性」を選びとっていこうとする意見の表明の仕方に、単純に「感動」しました。


ところで、私は以前マッキンゼーという経営コンサルティング会社に勤めており、そこには「卒業生のメーリングリスト」というものがあります。そこで、橋下改革にかなり中心的な立場で参加されていると伺っている上山信一慶大教授が、かなり細かい改革の中身について共有されていたことがあります。

それを拝見していると、橋下改革の中身には、一般に思われているような「とにかくなんでも弱者を切り捨てる志向」というよりは、(アンフェアな既得権益を削る一方で)「本当に困っている人にはちゃんと直接的に手当てできるようにしよう」という方針は、かなり明確に一貫して存在しているように感じられました。

というか、恥ずかしながら私はそれを拝見するまで、橋下改革についてはメディアでたまに触れる程度の「政策の中身(特に国政的に派手な議題のみ)」の印象しかなかったために、想像以上に「弱者保護的な視点」が入っていることに個人的に驚愕したぐらいです。

なぜここまでの「印象の違い」が生まれてしまっているのだろうか?という問いは、それ自体として真剣に考えてみる価値がありそうです。

なぜなら、この構図を冷静に考えてみれば、「印象だけで橋下氏が大嫌い」になってしまっている層の中に、「内容を具体的に詰めれば、凄く心強い仲間になってくれる人」が、かなりの程度いるはずだということになるからです。

そして、橋下氏の構想が、一地方的な問題から、日本全国を巻き込んだものに展開していくとなれば、その「印象だけで大嫌いになってしまっているが、内容だけ見れば力強い仲間になってくれるはずの人たち」のバックアップが得られる流れになっていくことは、非常に重要な課題となってくるのではないかと推察されます。

私は、この「日本における”知性”と”みんなの心”のギャップ」の間の無駄な争いの解消を、幕末における「知性派の個人主義者たちが多かった長州藩」と、「集団的な現場の密度感で動いていた薩摩藩」との間の「薩長同盟」になぞらえて、その「本来あるべき連携を取り戻す文脈」を再生することを、「経済・経営の現場感」と「思想・経済の広がり感」をクロスオーバーさせながら提言していくことをライフワークとしています。

橋下氏には「アゴラだかゴリラだか知らねーが」とヒドイ言われようのネットメディアですが、一方でそこには、「右か左か」「革新か保守か」「ビジネス系かNPO的なものか」「実務的か思想的か」といった、「既存の文脈」とは違う「新しい捉え直し」を行っていける可能性があります。そして、橋本氏が「本来得られるべきもっと広く深い賛同」を得られずにいる問題の根底にも、この「既存メディアの既存の文脈」自体の機能不全があるのです。

「20世紀的な紋切り型の価値観で言ったら天敵」みたいな属性の人たち同士の間に、「現地現物で考えればむしろ一番の仲間」といった、「薩長同盟的な繋がり」を生み出す「文脈」を生み出していくことが私の人生的なテーマです。そのために、(リンクのプロフィール欄をお読みいただければわかる通り)、一貫して「両者を繋ぐような、一種クレイジーな研鑽」を積んできました。

「知性派」と「現場派」の両者の中にドップリ浸かって探求してきたからこそできる、その「両者を繋ぐ”文脈”の提言」を、これから連続して「ネットメディア」であるアゴラに投稿していきたいと思っています。

倉本 圭造
経済思想家・元経営コンサルタント
公式ブログ「覚悟とは犠牲の心ではない」

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