Think simply!

小幡 績

みんなぐちゃぐちゃだなあ、もう。

橋下市長のブレーンがいろいろ言うことに一喜一憂しなさんな。

経済学者や評論家達も、制度論をいじって遊ぶのも好いけど、そろそろ受け手側も面倒になってきたよ。

一方、民主も自民もそして橋下氏も、明らかな政局、権力党争を、中途半端に隠しなさんな。1970年代までの自民党のようにすべて裏でやるか、開き直たっらどうかな。

ここでは、極めてシンプルに本質だけを考えよう。日本経済について。そして日本政治について。


混乱し、将来不透明な世の中だからこそ、シンプルに本質だけを考えないと、素晴らしい政策提言でも、次々と現れる社会の変化、事件、新たな政治、経済プレーヤー、そして気まぐれな市場、世論に流されてしまう。

少し理論的に言えば、不確定要素が大きいとき、ノイズが多いときは、robustな(環境変化、行動のぶれに対して頑健な、つまり揺るぎにくい)制度、政策がセカンドベストとして望ましい、ということだ。

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財政。経済というのは、有限な資源を効率的に使って、よりよい生活をするということだ。よりよい生活とは、長期的にも持続可能なものと考えればいいし、よりよい、ということが物質だけでなく、精神や価値観も含めて考えればいいので、その議論は別の機会で構わない。そうなると幸福ベースで幸福のパイを大きくする、ということだ。

幸福のパイを大きくするためには、ストレスや環境負荷を含めたコストを最小限にして、共感などを含めた幸福感を最大化することであり、経済的価値をその中で最大化することだ。

そのために必要なことは、有効な資源は、それを最も効率的に使う人の手に配分されるべきであり、その人はそれを最大限有効活用して、社会の冨を最大化するべきだ。社会の冨が、この人に帰属するか、社会全体に帰属するかは後の話。分け方は別に考えて、パイを大きくすれば良い。

そのためには、お金は、効率的な経済主体に渡すのがよい。

誰が最も効率的にお金を使えるか。社会のパイを大きく出来るか。それを決めるのが資本市場であり、資本はもっとも利益を上げることが出来る主体にゆだねられる。

一方、それを最も非効率に使う主体として有名なのは、日本においては、日本国政府であり、ばらつきはあるが地方政府である。

したがって、彼らにお金を回すことになる国債発行は止めるべき、できる限り減らすべきである。

そうなると、埋蔵金をはじめ、国有地など財源がいくらでもあるから国債発行をしても大丈夫、暴落なんかしない、という議論は全く意味が無く、財源があろうが無かろうが、国債発行は減らし、歳出は削減した方がいいのである。

これまで日本の貴重な資本は利益を生み出さない政府部門に1000兆円も奪われてきた。それを利益を生み出す効率的な主体にゆだねれば、パイは大きくなる。経済は成長するのである。

したがって、経済成長戦略は、国債残高を減らし、効率的に利益を上げる分野に資本を移動させることである。

資金の使い道が無くても構わない。政府の投資がリターンを生んでいないのであれば、あるいは90の価値しか無いものを100かけて行っているとすれば(この場合も100%無駄では無いから90のベネフィットを受けて、100のコストを負担しない人々はこの事業の継続を求める)、101生み出す事業までやれる。だから、生産は拡大する。

(さらに金利が低下するだろう。そして、生産物はあふれデフレになるかもしれない。金利低下とデフレは実は誰かが得をし、誰かが損をするだけだから、何の問題も無いのだが、その話をすると議論の焦点がこちらに移るので、これはまた別の機会にしよう。)

生産が拡大すると何がいいか。

雇用が増えるからである。

経済社会における最大の非効率は、失業である。

それがケインズの一般理論の唯一のエッセンスである。

だから、失業を減らし、とりわけ若年失業を減らし、彼らが経済からそして社会からドロップアウトするのを防がないと行けない。そして、人的資本を蓄積させ、経済における資本を増加させる。

これが、財政政策であり、成長戦略であり、社会政策である。

国債残高を減らし、それを経済生産資本に回し、それにより若年層への雇用を創出する。それがすべてだ。

増税は、トータルの歳出の増加につながらなければよい。敗戦処理、つまり、過去の借金残高と国民への空約束(年金、介護)の処理のために必要で、処理費用を最小化するためには増税が必要だ、と言うことになれば、増税した方がいいし、それで歳出が膨らむなら止めた方がいい。だから、増税で社会保障を補うことにして、増税するぐらいなら、削減できるところはしよう、ということになるのなら、増税も悪くない。これが、税と社会保障の一体改革の意味だ。

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一方、政治はどうか。

権力闘争こそが政治である。だから、何をやっても構わない。社会にとっては、結果として出てくる政策が良ければ良い。しかし、彼らは政策のプロではあり得ず、政治をやってもらえば良い。だから、さっさと喧嘩の勝利者を決めてもらい、勝者に権力をゆだねるが、その勝者は、自らの思いや信念などと言うくだらないものに拘泥せず、権力を維持するためだけに、良い政策を打ち出せば良い。

したがって、民主党の自称政策通の若手政治家に主導権をゆだねてはならず、自民党および民主党の一部の古い利権、集団に利益誘導する政治家達は、それを効率的に行うことが出来る者に限り、橋下や石原などの個人カリスマを利用したポピュリストはもっとも効率的にポピュリズムを展開してもらい、政策などをポピュリズムに利用せず、政策は人気が出た後に決めてもらえば良い。

政策は難しい。時代は瞬時に変化し、経済状況は流動的だ。だから、事前に政策やマニフェストなどを決めず、ただ、その瞬間に重要なことを速やかに決めることが出来る組織が必要である。議会では多数決だから、それを個人のカリスマに求めては継続性、予知可能性が低下するので、やはり安定した組織であることが望ましい。かつての自民党の派閥や小泉政権における清和会のような結束力の強い組織が求められる。

その意味で、橋下、石原は危うく、派閥の無い民主党も駄目で、小沢派は力が弱まったことこそが問題であり、すぐふらふらする自民党若手は駄目なのである。

そうなると理論的には共産党と公明党が望ましい政党となるが、広がりがなく、リードする政党にはなれない。したがって、望ましい政界の姿とは、現状では、民主党あるいは自民党の一部が(それぞれの党の内部で)、政策によらず、人的つながりにより結束を固め、そこをコアとして、党内の支持を集め、公明党と連携する、という姿になるだろう。

その意味で、小泉政権から学ぶことは多く、橋下氏が小泉になれるかどうかは、永続的に結束できる仲間を集めることができるかどうかにかかっている。また、国民新党は、割れた以上、もはや存在意義は無い。意味不明に見えた亀井代表はぶれずにまとまると言う意味でもっとも忠実に政党の機能を果たしてきたが、これで役割は終わったということだろう。