橋下 vs 池田論争が切り開くもの --- 倉本 圭造

アゴラ編集部

池田信夫氏と橋下徹氏の論争は、さらにヒートアップされているようですが、そこから生まれる示唆もまた大きく、こういう論争が、結果として導く未来は非常に明るいと私は思っています。

日本は、アメリカのように「知性側」の立場に強力な「権限」を付与して、それを末端までガツン!と押し通してしまえるような国ではありません。そのこと自体、日本における知性派の最大の苛立ちの元ではありますが、それが一周回って担保している長所的側面が日本を支えている力というのは想像を絶する大きさなので、無理に転換しようとしても難しい。

「知性と現場」の間を、アメリカのような「権力関係」でなく、「何らかの信頼関係」で乗り切らなくては、決して前に進めないのが日本なのです。


それを考えると、橋下氏の発言にポピュリズム的側面があり、「純粋な議論」だけを考えると必要のないように(知性派から見れば)思える論戦をしかけまくっておられるのも、「そういうキャラでいることでようやく繋ぎとめている”民意の大きさ”」というものがあるのだ・・・という風に考えると、むしろ、日本における知性派がなすべきことは、彼の「言っていること自体」の論理の隅々を批判することではなく、彼が「頑張って維持してくれてる民意の求心力としての役割」への敬意を持って、同じ主張をするにしても、「彼が受け入れやすいような形」で提示していくように、ある程度サポーティブに考えることが必要だと思います。

いずれ、こういう論戦がヒートアップしていけば、「現場主義者側」vs「知性派」の間に、「緊張関係」が生まれて、「新しい言論市場」が生まれてくるでしょう。そこから日本における「現場と知性の薩長同盟」へ、全日本人を強力に巻き込んでいくムーブメントが生起してくると私は考えています。

こういう議論を続けていれば、「現場主義者」も、「知性的一貫性」を自分のなかに持たざるを得なくなってくる。一方で、「知性派」の方でも、自分の意見の「現場的有効性」について常に考えざるを得なくなってくる。この流れが続けば、

「どちら側にいるのか」から、「どれだけ意味あることが言えるのか」という「論戦のゲームのルール変更」が起きてきて、「現場的リアリティと知性的一貫性がバッチリ噛み合う形」へと、日本人全体を導いてくれるようになっていく

でしょう。

特に、「アゴラ」的な立場にいる、「市場メカニズムの可能性からの変革を主張する論客」には、日本企業の現状のダメさを指摘しながら、その”解決策”部分は、「市場に任せりゃなんとかなるんじゃない?」的に丸投げにしがちなところがあると思います。「ガバナンス」的な話題において、本当に「生身に毎日働いている他人が物凄い数いて、その人達にどう動いてもらうのか」を一切考えない方が結構いますよね。

例えば、部門連携がよくないタコツボ組織だからこういう製品になってるんだ・・・という批判はとても良いと思います。しかし、じゃあ、タコツボを壊せば良くなるよね・・・・と「なってからが勝負」なわけですよね。実際には。そして、そのタコツボを壊す流れを起こすのに「マーケットの圧力」のバックアップを利用すること自体は最終的に必要だと思いますが、いざ気持ちがバラバラになったらすぐ他人に責任を押し付けあって何も決められなくなるのが日本です。

今の「政治」における問題とあらゆる「ノイズ」に苦々しい思いをされている「知的な論客」さんは、「企業のガバナンス」ならそんなことは起きない・・・とお思いでしょうか?そんなわけはありませんね。

だからこそ、「日本人の集団の求心力を維持するための”儀式的”問題」への配慮をしながら、「知的に考えたゴール」へと動かしていかねばならないわけです。そういう「圧力」が、「言論側」に対して加わっていくことは、むしろ「良心的な言論の担い手」を選び出してフィーチャーする適正化メカニズムとして働くでしょう。

その流れが加速していくことによってしか、日本における「現場」と「知性」がガッチリ手を組むことはありえません。

そしてその「適正化メカニズム」こそが、前回記事で触れた「既得権益者が破壊されない”真因”の方を根枯らしにする」ための唯一の方策なのです。

文字数的にアゴラではシンプルな文章にしましたが、より詳細な議論にご興味がある方は、松坂&岩隈投手の不調の原因とその解決と関わらせて書いた私のブログのこの記事をどうぞ。

倉本 圭造
経済思想家・元経営コンサルタント
公式ブログ「覚悟とは犠牲の心ではない」