書評:知はいかにして再発明されたか --- 中村 伊知哉

2012年04月19日 10:28


知はいかにして「再発明」されたか─アレクサンドリア図書館からインターネットまで

イアン・マクニーリー/ライザ・ウルヴァートン著「知はいかにして再発明されたか」を読みました。

6点ばかり視点を得たのでピックアップし、これらに対するメモをつけておきます。


視点1:始皇帝のもと焚書を実施した李斯は中国語の書き言葉の標準化を推進。;中国が一つの国として今に至るのはそのおかげ。

→焚書は文化を殺すものだが、同時に、文字の標準化=多様性の否定は、大きな統合文化圏を形成した。中国は複数民族国家だが、それをとりまとめているのは文字だという。日本はどうだろう。日本語という文字で成立している部分もあろうか。

視点2:世界初の大学ボローニャでは教師は学生に雇われていて、学生が教師より優位だった。

→日本は今そうすべきではないか。少子化で大学間競争が激化する中、資金の出し手=クライアントである学生とサービス提供者としての教師との関係を大学側は点検したほうがよい。

東大の議論を契機に9月入学への移行が取りざたされている。大学の国際競争に打って出るか(秋入学)、国内競争で生きるか(春入学)の分かれ道。大学はどう生きるかを問う場面が来ている。

視点3:グーテンベルクの発明後も、知は書籍ではなく手紙を中心に組織された。

→ソーシャル(手紙)後にコンテンツ(書物)が登場した。今、改めてデジタルはコンテンツからソーシャルへとコミュニケーションのベースが移行しつつある。

視点4:ラボワジェの夫人の愛人の息子がデュポンを創設した。

→知らなかった。

視点5:マルクスはドイツの遅れを憂い、「政治においてドイツ人は他の国が”している”ことを”考えてきた”にすぎない」と述べた。

→今の日本だ。

「考える」から「する」に転化するにはエネルギーが必要。

これは次の視点6と共通する。

アンディ・アンドルーズ『希望をはこぶ人』の中に、こういうくだりがある。

「五羽のカモメが防波堤にとまっている。そのうちの一羽が飛び立つことを決意した。残っているのは何羽だい?四羽です。そうじゃない。五羽だよ。飛び立とうと決意することと、実際に飛び立つことはまったく別物だからね。いいかい?誤解されがちだが、決意そのものには何の力もないんだよ。」

そうだね。

視点6:パスツールが開発したワクチンを農場に投入するには、大変なエネルギーをかけて農場関係者を説得せねばならなかった。

→「何を」より「どう」が難しい事例。いま日本に横たわる問題の大半は、「何を」すべきか明白ながら、「どう」実現するかの調整と決断ができないという状況。しかし、多くの場合、「何を」ばかりが論じられ、前に進まない。

政策論では、「何を」のアイディア、つまり法案や予算措置を企画するエネルギーを1とすれば、「どう」実現するか、説得と調整と決定と実行と検証にかかる裏側のエネルギーは10。

社会人になりたての頃、上司から「仕事の9割は調整だ」と叩き込まれた。これは組織人はわかっているが、当たり前すぎて言わないだけ。だが、文系の学者をはじめ、企画と論評で満足する人が発言力を持っていたりするので、遂行するエンジンが働かないと停滞する。

霞ヶ関の功罪の「功」は、政策面でその裏側を黙々とこなしていたということで、今はそこが機能不全を起こしているから、どうにもバランスの悪い状況となっている。

某市長が学者や評論家に「ならあんたがやってみろ」とタンカを切るのは、「どう」の重さを知事時代に負ってきたからリアリティーがあり、しかし切られた側の多くはその重さを無視する地点にいるからリアリティーが伝わらない。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2012年4月19日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。

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