『本気で脱原発だからこそ再稼働』的な落とし所を模索したい。

倉本 圭造

野田首相の再稼働容認演説について、内田樹氏のブログ記事が賛否両論に話題となっているようです。彼への批判の代表的なものとして、池田信夫氏のこの記事のような論旨が考えられるでしょう。

しかし、

こういう対立の「先」に行かないと、日本が本当に前に進むことは無い

と、私は切実に思っています。過去にも常にそういう趣旨の文章を書いてきました。


なぜそう思うのか?

私は、本当に現実的に、日本を自然エネルギーの国にしたいと考えているからです。最終的にキッチリ脱原発をやりきりたい。だからといって、「経済発展なんてもういらないんだよ」的な非現実的な態度も取りたくない。そう言ってしまうのは簡単だが、実際にそうなってしまった時にどれほどの「不幸」があちこちに生まれるのかを、やはり私は考えざるを得ないからです。

なぜなら内田氏に負けないくらい私はこの国を愛しているからです。だからこそ、この対立をなんとか乗り越えて、「本当に現実的で、かつ理想も諦めていないライン」にこの国を載せなくてはならないと考えている。ただ「片方だけの立場」を述べるだけに終わることが「愛国心」だとは決して思えない。

私は最終的に、日本を自然エネルギー100%の国にしたいと思っています。

確かにビル・ゲイツの新型原発構想を聴いた時には、世界の現状に対する真摯な危機感を責任感に感動しましたし、「ゆっくり燃える」ために稼働しはじめると一切密閉容器を開ける必要がないため安全で新興国でも扱える新型原発というアイデアにも感銘を受けました。

しかし、それでも私は、一箇所に科学技術の粋を集めた高性能な原発を配置する発想よりも、比較的単純な構造のモノを分散的に大量に配置し、それを高度に連携させて運用することでエネルギーを賄うという発想の方が、例えば大型コンピュータが小さなコンピュータ群のネットワークに置き換えられて行く革新のようなパラダイム転換を感じさせるエレガントさを備えているように感じます。

太陽光発電・地熱・風車といったメジャーなものだけでなく、例えば、黒潮などの海流に対して魚のような形のブイを大量に浮かせる海流発電など、試してみればかなりの可能性がある技術はまだまだあるでしょう。

それらを時間をかけて熟成していき、需要側の無理のないコントロール技術や節電努力も組み合わせれば、いつの日か無理なく自然エネルギー100%の国になる・・・というのは私の夢です。

もしそれが無理なく実現する時代になったら、どこにも「燃料」を使わずに済むわけですから、純粋に経済性だけを取っても「合理的」なソリューションとなるでしょう。そのプロセスから生まれる技術革新や創出される雇用も大きいはずです。

しかし、本当にそれを実現するには、社会の中の色々な立場の人同士の高度な連携が必要です。

原発や火力・水力などの「発電量の読みやすい」発電手段ではないわけですから、送電・配電・蓄電システムに物凄い高度な連携力が必要になることは間違いない。

それこそ、アメリカ人が考えた「大量生産方式」を、日本人ならではの観点で超絶に高度化したトヨタ生産方式のような、あるいは首都圏の入り組んだ電車を毎日分単位で高度に運用するような、「日本人ならではの運用技術」の圧倒的な蓄積」が必要になってくる。

そのためには、単純な「脱原発派」も、そうでない人も、お互いに原則論を述べ合ってるだけのような今の状況では決して辿りつけない。

原則論だけで現実的な供給力や経済性を排除した理想を言う脱原発派だけでも辿りつけないし、だからといって彼らを批判するタイプの人にありがちな、「ただ競争させりゃいいじゃん・ただ価格インセンティブを利用すりゃいいじゃん」的な脳天気な経済学的一般論だけでも辿りつけない。2000年の米カリフォルニア電力危機の例をあげるまでもなく、電力供給の安定性というのはちょっとした無責任さの暴走でも危機に瀕するぐらいデリケートな対象だからです。

今みたいに、川の向こうとこっちで大声で叫びあっているような状況で、そういうデリケートな問題を解決することは決してできません。せめて同じ部屋の中でお互いの言うことを突き詰めあえる「環境」を作らないと、「無理やりに現状を変えようとする動き」と、「破滅的にならないために全部変えさせまいとする動き」の二種類以外は成立しなくなってしまうからです。

そのことを、内田氏も、そして逆に、彼のような論旨への批判者の方にもぜひ考えて欲しい。

例えば、野田首相の再稼働容認演説に対するニュースを見ていると、「原発のコストは安いと言っていましたが、そんなことは無い、高いっていうことを我々はこれからも厳しく追求しなくてはなりません」と古舘伊知郎氏が熱弁をふるっておられました。

しかし、ああいう発言は明らかにおかしい。「既に作ってしまっていて、かつ動かさずにいてもコストを食う原発群をどうするか」という観点からの比較になっていないからです。

現状、年間3兆円とも言われる燃料費の増大の問題があり、そして電力供給「見通しの不安定化」というだけでも産業的な影響が非常に大きく懸念される中で、脱原発したいからといって、あからさまにミスリードな情報を責任あるマスコミがバラまくのは望ましいことではありません。

結局それでは、「本当に電力を安定供給するという使命」を、既存の電力会社に丸投げしてしまうことになるからです。

それでは、お互いの立場を超えて本当に意義のあるアイデアを持ち寄るような連携は生まれない。それでは決して自然エネルギーも普及しない。

無理やり付けた補助金の分多少は導入が進んでも、いずれ内在する経済非合理性が表に出てきて息切れしてしまい、最終的に自然エネルギー全体が、「ゴリ押しされて一瞬売れたけどすぐ見なくなった一発屋芸人」みたいになりかねない。

それでいいのか?いいわけないだろう?と私は思うのです。だからこそ、リスクをゼロにはできないにしても、できる限りの安全性を確保した上で、既に作ってしまっている原発は再稼働するべきです。

そうやって無駄な出費を抑えながらでなくては、本当に「脱原発・自然エネルギー化」などできないからです。せいぜい「既に十分効果が読める技術」である火力にシフトする程度しかできなくなるでしょう。

しかし、内田氏が「”感情論的”であること」を批判するだけの立場の方にも、ぜひ考えていただきたいことがある。本当にこれからの日本を現実的に動かしていくには、「感情論で動く愚民どもは嫌だよねえ」的なことを言ってるだけじゃダメだ・・・・ってことです。

そんな言い方をするヤツが嫌われて、なかなか自説を受け入れてもらえなくなるのは一種当然なことです。

特に、今回の再稼働問題で大きいのは、脱原発派としては、

「一個再稼働したら、もう全て元の木阿弥に原発推進路線に戻ってしまうんじゃないか」という根強い懸念がある

ということなんですね。実際には私にもある。

だからこそ、「脱原発派」は、「過剰なほどの行動」をしていなくてはいけなくなっている部分がある。マスコミも、ミスリードだろうがなんだろうが脱原発方向以外の情報をシャットアウトしておきたくなってしまう。同じ累積被曝量でも、低線量の長期間に渡る被曝は被害がかなり少ないという研究結果(おそらく被災地周辺で不安に思っておられる方や、避難生活の苦労を味わっておられる方の現実的苦労をかなり軽減できると思われる)についても、ネット以外のテレビや新聞で聴いたことがない・・・という状況になってしまう。

そこで提案なのですが、

当面の既存原発再稼働を目指すためにこそ、「超長期の脱原発」に何らかの明確なコミットメントを示そうとする、そういう立場の言論を増やしていく

ことができないか?と私は考えています。

いざ「超長期で見た脱原発」を目指すことにしてしまえば、そこからは「本当に具現化可能な自然エネルギーの普及策」を真剣に両者の冷静な視点を持ち寄って考えることができるようになるからです。

大飯原発以外の再稼働についても理解が得られやすくなるでしょう(もしあなたが大飯原発に限らない広範囲の再稼働を望む方ならこういう方向性によってしか理解を得られることはありえないと思います)し、自然エネルギーの導入についても、拙速で無理矢理な補助金政策ではなく、現実的でサステナブルな一歩ずつ進むプロセスを歩むことが可能になるはずです。そういう信頼関係が社会にあれば、既存原発の安全対策や情報公開も、より自然に徹底したものにすることができるようになるはずです。

前回の長文投稿で書いたことの繰り返しになりますが、こういう場合に大切なことは、

対立する両者の「最も理想主義的な気持ち」の「持って行き場」を作る

ことです。

内田氏に対して批判的な方は、内田氏よりもさらに「感情」をちゃんと配慮したような方向での言説を、少し心がけていただければと思います。

「感情でしか考えない愚民ども」的な態度を取っていては決して「広域的な連携」は生まれません。

むしろ、「脱原発を本気でやりたいなら、一歩ずつ現実的なステップを踏まなきゃいけないだろ!」という立場に、内田氏以上の「理想主義のオーラ」を宿すことができるかどうか

・・・・それが鍵です。

あなたがいまだに真剣な原発推進派なら、その流れには乗れないと思うかもしれませんが、どうせ当面日本は新しく原発を作ったりはできませんよ。しかし、日本には世界的原発メーカーの大半が揃っていて今後も輸出を続けるわけですから、技術蓄積が途絶えることはありません。そして、あなたがたが、「とりあえず脱原発に賛成してやるけどよ、お前らが空想的な理想ばっか言ってて結局自然エネルギー転換が破綻したりしたら、マジで絶対次は原発作らせてもらうかんな!」的なプレッシャーをかけるようにしていくことは、「脱原発派」にも「現実的責任」を感じさせる適切な圧力になるはずです。そういう風に考えて、ぜひこの「ど真ん中の言論」にご参加いただければと思っています。

その方向性が、いわゆる「朝日新聞的センチメンタリズム」をちゃんと吸収できるほどまで純化できさえすれば、やっと日本は「一丸となって一つの問題に対応する」ことが可能になるでしょう。

「巨悪さん」に全てを丸投げしまうような無責任な左翼性ではない、「現実的にそれを具現化しようとする理想主義」に、日本人の「気持ち」をどれだけ結集できるかです。

どちらの立場におられる方にも、そういう「ど真ん中の言論」へのシフトを、ぜひお願いしたいと思っています。

「薩長同盟」に例えて書いたこの記事のように、この問題を超えられるかどうかが、現在の日本の混乱が、

「破滅に突っ走った太平洋戦争」や「陰惨な内ゲバに終わった戦後左翼過激派運動」パターン

に陥るのか、それとも、

「混乱の中から新しい文明の基礎を打ち立てた明治維新パターン」

に転換できるのかの分かれ目です。

その山を超えた時の日本は、ただエネルギー問題を解決できるだけでなく、経済・社会・国家運営のモードにおいて、疑いなく「世界最先端の新しい希望」を得るのです。

ぬかりなく進みましょう。

思うに内田氏ご本人だって、ただ今の立場で反対意見を述べているだけでは前に進めないことをご理解いただけるはずです。現状が「金儲けしか考えていない企業経営の視点の人間に国家運営を任せているという背理的状況」であるとしても、そう言っているだけでは「金儲けしか考えていない企業経営の視点の人間の意見」のままこの社会は動くでしょう。

それでは、結局「内田氏側」の立場の人の「思い」を、決して反映できないままの世界になってしまいます。それでいいはずはないですよね?

どうか、内田氏ご本人にもそして内田氏の支持者の方にも、本記事のような「ど真ん中の方向」へのご理解をいただきたいと思っています。

私は内田氏に負けないほどこの国を愛しています。ただ「カネ儲けの視点」でだけ言っているのではありません。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
公式ブログ「覚悟とは犠牲の心ではない」