「紫陽花(あじさい)革命」という幻想

2012年07月02日 13:08

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首相官邸前に大飯原発再稼働に反対する大規模なデモが行なわれました。組織的なデモではなく、ソーシャル・ネットワークの呼びかけで多くの人が集まったために、中東の「ジャスミン革命」に倣い、季節柄「紫陽花(あじさい)革命」と名付けた人もいます。


しかし「革命」とはほど遠く、「運動」としても発展性を感じません。なぜなら、原発再稼働に対する不安感や不信感以上のものが伝わってこないからです。政治に自らの行動で意思を表明しようとしたことはいいことかもしれませんが、紫陽花(あじさい)が長く美しさを保てないように、情緒だけで広がった運動はやがて消えていきます。しかも、政治の世界で「革命」というのなら権力を奪うという話になりますがひとつの政策への賛否であって違和感があります。実際にチュニジアやエジプトでは政権が崩壊しました。

ただ、見るべきこともあったように感じます。ソーシャル・ネットワークが『動員』のパワーを持つことを証明した出来事だったことです。尖閣沖での不法操業の中国漁船の船長が釈放された時にも、お馴染みの政治団体だけでなく、こういった呼びかけによるデモも起りましたが、主催者側とマスメディアの報道での参加者数の違いはあったものの、それを超えた規模の動員がなされたことは間違いないでしょう。またこのデモの様子がtwitterやFacebookによって広く伝えられました。そのことは、藤代さんが「一人一人がジャーナリストである証」と言ったように、新しい時代を感じさせるものでした。現場にいなくとも、マスメディアの報道以外の情報を入手できる時代になったことをも示したのです。
官邸前デモで考える、誰もがジャーナリスト時代のメディアリテラシー – ガ島通信 :

そして、参加した人はおそらくはじめてこういったデモに参加した人もいて、「人が集まる」エネルギーを受け、気持ちが高揚した人もいるでしょう。だから、警察やマスコミの発表した動員数と主催者発表の動員数の違いに憤った人もいましたが、昔からそんなものでした。1960年代後半に巻き起こった反ベトナム戦争、反安保のデモの規模や激しさと比べればデモとしては決して大きな規模ではありません。当時でも首都圏が麻痺するような規模のデモは幾度もありましたが、それでも参加者は2万人とか3万人と発表されていたものです。そんな少人数で首都圏が麻痺状態に陥りません。

さて、この「反原発」や「再稼働反対」に対する行動ですが、それによって起る影響が考慮されていない主張です。重要なことは福島第一原発事故によって亡くなったのは、風評被害によって、また退去命令によって故郷の生活基盤を失い、また地域の絆を引き裂かれたことで失望して自殺した人です。
しかし、同じように、原発を止め、エネルギー不足という新たな深刻な事態となり、それが経済に大きなダメージを与えれば、企業によっては倒産に追い込まれる、またリストラせざるをえない企業もでてくるでしょう。経済状況と自殺率はリンクしており、再稼働しないことは確実に自殺者が増えるリスクを高めるのです。
倒産・リストラによる自殺を防げ! 日経BP社 :

政府決定に憤りを感じる、だから反対するというのは自由なのですが、もしそれで困窮した人が自殺しようとする瞬間を目の当たりにしたときに、「原発反対」、「再稼働反対」を主張してきた人たちはどう受け止めるのでしょうか。

再稼働させず、化石燃料を輸入して燃やし続け、電力料金が上がってもゆとりでやっていける人ならいいのですが、Parsley(ふじいりょう)さんがブログで書かれているように、それが死活問題になる人もいることは考えられていない主張なのです。

大前提として、誰でも主義主張を自由に表明する権利があるから、デモでもなんでもやればいい。けれど、まるで自分達の主張が「国民の声である」的な言説を採るのは、ちょっと待ってよ、といいたくなる。

誰がための「脱原発」?デモの当事者性 :: Parsleyの「添え物は添え物らしく」|yaplog!(ヤプログ!)byGMO :

何回もブログで書いているのですが、現代は、あちらを取れば、こちらが立たずの選択、つまりトレードオフの選択を迫られていることが増えてきており、原発問題もその典型です。そのなかで、本当はなにが問題を解く鍵なのかを見いだし、よりよい方法で解決していくのが知恵というものです。

原発があることは逃れようのない現実です。再稼働のための安全体制の不備について異議を唱えるのならいざしらず、原発を再稼働させなくとも原発をかかえる現実は変えられないのです。
再稼働させなければ、まったく稼働しないにもかかわらず、設備の維持コストをかけ、また廃炉に向けた使用済み核燃料処理への投資も必要になってきます。それに燃料の輸入コストが加わります。それを国民が負担しなければならないのです。しかも、廃炉にいたるまでには長い年月がかかります。今反対を主張している人たちの次世代にも大きなツケを残す結果になってきます。自然エネルギーの活用にもまだまだ技術、システムでのイノベーションが必要であり、いまではさらに電力料金を高騰させるだけになってしまいます。

まともに議論が進めば進むほど、出口なしになってしまうのです。できることは、自然エネルギーの活用でイノベーションが起るしくみをつくり、長期的な視野にたって原発に頼らなくとも安く電力が提供できるこことを促すこと、またできるだけ原発の安全な活用を追及することぐらいしかないのです。廃炉に向けた、使用済み核燃料処理の研究開発を進めるなかで原発にもより安全性を高めるイノベーションが起こってくることもありえるかも知れません。

しかも、イノベーションは計画的に起るものではないことを理解しておかなければなりません。いくら官僚が作文しても計画化できないのです。だから政府が関与したイノベーション計画も成長戦略もことごとく失敗するのです。

現実を無視し、また再稼働させなかったことによるリスクの発生も織り込んでいない反対運動は、しょせん広がることも影響力も持ちません。暇な学者さんが憲法に保証されていて、どうぞ気軽なピクニック気分で参加してくださいと書いていますが、憤りを感じます。死活問題に直面する人のことも想像できず、ただただデモも自由だというのも自由ですが、それほど非人間的な行為はありません。それならあんたが解決しろと言いたくなります。

「紫陽花(あじさい)革命」という幻想をもし抱いた人がいるとすれば、このままでは幻想に終わってしまいます。本気なら、デモを起こすよりは、エネルギー問題についてのシンポジウムでも開いて、ほんとうの課題がどこにあるかの国民的理解を広げる運動こそがもっとも望まれることではないでしょうか。

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大西 宏
株式会社ビジネスラボ代表

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