収入の多寡は必ずしも有意義な人生を担保しない --- 岡本 裕明

アゴラ編集部

日経電子版に「生涯収入が2億円多くても幸せな人生とは限らない」というタイトルの記事があり、ざっと読ませていただきました。大学卒の生涯賃金が退職金や年金まで入れると3億2000万円ぐらいに対してフリーターで年金も払っていなければせいぜい8000万円から1億円。その差は2億数千万円になるが、では大学卒が幸せでそうではない人が不幸かといえばそんなはずはない、というのが趣旨。この記事はマネーそのものにフォーカスしているのですが私には別の意味で考えさせられる内容でした。


私は自分の30代、40代を「働きすぎだった時代」と称しています。更にバンクーバーにいていわゆる消費欲をそそるようなものが少なかったこともあり消費活動とエンタテイメントに対してあまりにも無頓着だったような気がします。こんな事を言うと批判されるかもしれませんが、例えばゴルフでもゴルフ場の経営を2度やっていてそれなりのキャリアはありましたが6年前に時間が取れなくてゴルフを封印しましたし、大学時代から親しんだロードバイクに乗るのもやはり3時間という時間が取れなくて倉庫にしまうことになってしまいました。つまり、バンクーバーでは時間を要する消費活動が多く、結局それを楽しめなかったということです。

しかし、ここ数年、いろいろ考えることが多くなりました。果たしてこのままでよいのか、と。

人生、健康で海外旅行など差しさわりのない程度の体の自由が利き、うまいものをうまいと感じて食べることが出来て、おっくうがらずに社交性を維持できる年齢を仮に70歳としましょう。そうだとすれば残り時間があまりにも短すぎる、という事になります。

つまり、生涯賃金が何億あろうと人生を如何に楽しめるかがポイントであって1億しか稼げない人でも楽しい人生はあると思うのです。

バンクーバーで20年前に生活を始めたとき、第一印象としてこちらの人はお金を使わないで人生を楽しむ方法を知っていると感じました。それは「時間」という価値をお金と同じぐらいの重きあるものとして捉えているからです。カナダ人と会話すると「私には時間がある」という言葉を端々で聞くことがあります。これは幸せであるという意味そのものではないでしょうか?

確かに過去20年、私が忙しそうにしているのをみてカナダ人は「可愛そうに」という目で見ていました。つまり、不幸せそうに見えるということです。多分、私が幸せなるために時間を持てるようになれば旅行など時間を要する消費をするかもしれません。

このストーリーは何も私だけの話ではないということが今日のポイントです。日本の就労者はへとへとになるまで働かされています。そして消費はむしろ、ストレス発散という形での消費ではないでしょうか? 先進国のライフスタイルとしては不健全であるということです。日本が真の意味で先進国になる為には物質的満足から精神的満足を高める必要があるでしょう。そのためには稼ぐバランスと時間をエンジョイするバランスではないかと思っています。

今日はこのぐらいにしておきましょうか?


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2012年9月16日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。