大学に再び死期が近づいている!?

田村 耕太郎

10世紀にイタリアとフランスで生まれた大学。しかし、この大学というもの、
14~16世紀に実は一度死んでいるという。東大で「大学とは何か」の著者、吉見俊哉教授から聞いた話は目から鱗だった。そして吉見教授は「二度目の死期が近づいている」という。


一度目の大学の死因は色々あるが、大別すると以下の3つだ。

●数が増え過ぎて資格授与機関として学位が薄まってしまった。

●印刷技術の登場で、大量に本が生産されるようになり、大学に行かなくて学
べるようになった。

●より実学を教える専門学校や専門的研究に打ち込めるアカデミーが登場し、
そちらとの競争にさらされた。

 他には、国民国家が登場し母国語というものができ、エリートのラテン語市
場が行き詰ったこともある。これらの事情で、大学が生まれた欧州で大学は一
度死んでしまったと吉見教授は語ってくれた。

 この状況が現代に似ている。世界中で大学が増え過ぎている。日本に限って
も1945年に全国で48校しかなかったのだが、それが2010年には778校になってしまった。米国の2629校、中国の1794校に次ぐ数だ。人口規模で日本の半分以下の韓国には407校もある。ドイツ(370校)、 英国(167校)、フランス(94校)となっており、インドやロシアや中東などの新興国でも大学の数は急増し
ており、世界的に大学が増え過ぎてしまっている。日本では「ちょっと前まで
名前を書けば大学に入れる」と言われた時代だったが、今は「名前を書かなく
ても大学に入れる」時代だという。

 これだけ大学ができてしまっては、人材育成や人材評価証明機関としての大
学の真価が問われる。特に日本の場合は深刻だ。若者人口が減少する過程で大
学が急増したので、受験が徐々に形骸化し、ゆとり教育というダメージもあっ
て、世界対比で学力が低下している。企業に至っては、大学教育をあまり評価
しないので、大学の学位や成績ではなく受験の成績、つまり大学名だけで採用
の可否を決める傾向がある。

また文科省が導入した大学院重点化が、高等教育軽視に拍車をかけている部
分もある。これは米国に比して少ない大学院生に危機感を感じて導入されたも
ので、動機は悪くないのだが、名門大学院生が増え過ぎて、東大をはじめとす
る名門大学院は、学歴ロンダリングの温床とみなされてしまう。大学院に進ん
でいい成績を収めても企業からは評価されず、「地頭評価回帰」という妙な意
識に固まった企業サイドは「地頭見るなら大学名より高校名だ」となってきて
いる。もしそうなら、名門高校にさえ入っておけば、大学や大学院まで行って
頑張らなくてもいいのかもしれない。

 次にインターネットの登場である。中世欧州で、印刷技術による本の登場で、
大学に行かなくても学べる時代が来たが、今や本屋にさえ行かなくてもいい時
代が来てしまった。世界中の図書館の本をデジタル化して整理するグーグルと、
世界中に知識をデジタル化して販売するアマゾンの登場は、知の現場に大きな
衝撃を与えている。今の学生たちは図書館に行かなくても、予習も論文作成も
できてしまう。コピペ技術の登場で、論文作成もその審査の様子も様変わりだ。

 オンラインで無料または安価に学べる教育システムの登場もある。エール大
学等の名門でも、有名教授の授業をオープンユニバーシティというプラットフ
ォームで世界に向けて公開している。これは結構いい授業もあり、スキマ時間
に楽しめるので、私も教養と英語力のブラッシュアップのためにたまに見てい
る。

 資格が取れる実践的な専門学校の台頭も大学を脅かす。今や東大や東工大
を押しのけてIT企業に採用されるソフトウェア開発エンジニア教育を生み出す専門学校も日本に出てきている。

 これらに加えて、今の時代、大学教育という証明書がいらなくても実力や実
績を示せる若者の台頭がある。少し古くはビルゲイツ、最近ではマークザッ
カーバーグがそれだ。「モチベーション3・0」の著者、ダニエルピンク氏に
よれば、サンディエゴの高校生の8%が自分のオンラインビジネスを持ってい
ると言う。

 私が最近会った28歳のアメリカ人もこの手の人物で、高卒だが今や多くのグ
ローバル企業の顧問を務める。彼も中高生の時からオンラインビジネスで稼ぎ、 「能力ある若者を22歳まで学校に閉じ込めるのは愚かなことだ」と主張してい る。彼は「15歳くらいで一度社会に出た方がいい。たいした経験のない教師の話を聞いているのは退屈で時代遅れ。社会に出ればどんどん打たれて成長する」と断言する。

 これらの危機を大学はどうチャンスに変えていくべきか? じっくり考えて
みたい。一つは高齢化・グローバル化・テクノロジー進化の時代を逆手にとっての生涯教育(生涯教育と言っては陳腐な表現だが、陳腐なものとは少し違う)だと思う。
次の機会で