SFが生み出す未来・伝説的プログラマが目指す仮想現実

新 清士

昨年春にMichael Abrash氏が,ウエラブルコンピューティングの研究を始めていることが、米Valveのブログで本人により、発表された時には、ゲーム業界では大きな驚きを持って受け止められた。Valveは「Steam」というネット流通の草分けの企業で、パソコン向けの市場では、ほとんど独占的ともいえる強力な立場を築いている。また、「Half-Life2」「Team Fortress 2」「Portal 2」など、次々に傑作ゲームを発表し続け、世界的な有力なゲーム会社の一社でもある。そのソフトウェア中心の企業が、ハードウェアに投資しているという事実が衝撃的だったのだ。

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現在開催されている米サンフランシスコのGame Developers Conference(GDC、ゲーム開発者会議)で、初めてどのような研究開発が進められているのかが明らかにされた。完全なバーチャルリアリティ(VR)を実現するための技術開発だったのだ。ただ、私がさらに驚いたのは、Abrash氏の技術開発のモチベーションの重要な役割としてSF小説が関わっていることを知ったことだ。

■仮想世界をテーマにしたSF小説の実現を目指した3Dプログラミング


Abrash氏は、ほとんど伝説的なプログラマといっていい人物だ。96年に発売されたリアルタイム3Dグラフィックス「Quake」の開発に携わり、また、同時期に「Doom」という、まさにこの分野の元祖といってよいゲームの開発も手伝っている。複雑なプログラミングについてわかりやすく解説するコラムニストとしても知られており、プログラム専門誌で、長く連載を続けていた。特に、それらのコラムをとめた、1997年発売の「Graphics Programming Black Book」は、「Quake」に使われている3Dグラフィックスの方法論を解説した書籍として、広く読まれた。ちょうど、ソニー・コンピュータエンタテインメントの「プレイステーション」(94年)や、セガのドリームキャスト(98年)に発売された時期にも重なっているため、日本のゲームプログラマーにも通称「黒本」と呼ばれ、広く読まれた。

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印象的だったのが、講演の冒頭でリアルタイム3Dゲームの世界に飛び込むきっかけとなった本として、92年に発表されたSF作家のニール・スティーヴンスの「スノウ・クラッシュ」(ハヤカワ文庫)をあげたことだ。これは巨大な仮想空間「メタヴァース」に、仮想人格「アヴァター」として、アクセスしながら進むという物語だ。今読むと、あまりおもしろくはないのだが……92年頃には、多くの人に衝撃となったことを痛感する。もちろん、当時は、それほどの映像をつくることはコンピュータパワーが足りず、実現できなかったが、07年頃に、日本でも話題になった「セカンドライフ」も、この小説の世界を実現することが一つの夢として掲げられていた。

その後、Abrash氏はマイクロソフトのXboxの立ち上げの基礎環境の開発に関わったり、ゲーム内で使われる映像をスムーズに表示するようなプログラムを開発したり、インテルの新型チップの開発にも関わっていた。その後、11年に再び、ゲーム業界に戻ってきたのだ。

■完全なVR環境を構築する数多い課題

講演では、まだまだVR環境を構築するのが、いかに難しいのかを、プログラマでない人間でも理解できるように、わかりやすく解説をしていた。

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Abrash氏が開発しているウエアラブルコンピュータは、グーグルが開発している「Google Glass」といった、眼鏡上のものに片目だけにコンピュータ映像を出すというものではない。頭から被るヘッドマウントディスプレイを使った目に見える世界が完全なコンピュータグラフィックスよって作られる、完全なVRに没入できる環境だ。ただ、VRは「完全に表現するためには、序盤に過ぎず、完全な環境ができるには時間がかかる」(Abrash氏)とも説明していた。

Abrash氏は、VRの実現に大きな課題を3つあげていた。第1に「追跡(tracking)」。人が首を動かす速度に合わせて、映像を変化させることには、現在のVRでは計算が追いつかない。特に、頭の動きを追いかけるには、今より、はるかに速い速度で追跡できるようなコンピューティング環境を用意しなければならないとも述べていた。

第2に「レイテンシー(latency)」。これは、人間の頭の動きの情報に合わせて、コンピュータがその位置を計算して、映像を送り返して、ディスプレイに表示するまでに生まれてしまう遅延時間のことだ。これは現実世界と違い、どうしても生まれてしまう。どれだけ、レイテンシーを小さくできるのかが大きな課題だ。

第3に、「現実世界と知覚が、見分けがつかないほどの情報を提供すること」の本質的な難しさを上げている。そのために新しいアルゴリズムを構築する方法のいくつかの例を紹介していた。

もちろん、さらなる課題として、一般のユーザーが利用するためには、5000~10000ドルも機材に費用がかかるので、商用化には壁があることも付け加えた。ちなみに、先週、そうした機材を持っていれば同社のゲームでVR環境を表示できるようにしたそうだ。

■SF小説が牽引する未来と開発者の想像力とモチベーション

「すばらしいVRのための質の高さを生み出すには、多くの時間が必要で、そのための研究開発が必要だろう」(Abrash氏)と数々の解決が必要な課題をあげた。ただし、「数年後には、大きくゲームの環境が変わってくるだろう」とも述べた。開発用の環境として利用しているのは、Valveのオンライン対戦ゲーム「Team Fortress 2」だ。もちろん3Dグラフィックスで構築されている。なぜ、ゲームなのかと、疑問を持つかもしれないが、Abrash氏は、かつてゲームがリアルタイム3Dのコンピュータグラフィックスの世界を牽引したように、VRもゲームが牽引すると考えているようだ。

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そして、最後に、Abrash氏は今影響を受けている比較的最近のSF小説を2冊紹介した。12年に出版された仮想世界をテーマにしたErnest Cline の「Ready Player One: A Novel」(説明を読むと仮想世界で日本の巨大ロボットと戦うらしい)はVR技術が進歩していくことを示し、06年のVernor Vingeの「Rainbows End」をAlternative Reality(代替現実)のあり得るロードマップのだと述べていた。

まだ、メタヴァースを実現するには、現在のVR環境は足りないが、SF小説が、現在もAbrash氏が未来を見つめるためのツールになっている。

新清士 ジャーナリスト(ゲーム・IT)、作家 @kiyoshi_shin
メルマガ週刊アゴラにて「ゲーム産業の興亡」を連載中