純粋「東浩紀」批判―“棲み分けない”批評家について(その2) --- 石崎 貴嗣

2013年04月14日 06:00

その1から続く。

さて、東読者としての筆者の東に対する見方は、東のデリダに対するそれと同様である。つまり、筆者の見方では、東は真にデリディアンである。昔から一貫して東は、哲学者であって哲学者ではなく、批評家であって批評家ではない。実際、東はしばしば「自分の肩書きが何か分からない」という旨の発言をしている。


例えば、勝間和代がMCを務める「デキビジ」に出演した際には、

「なんでも良いんじゃないでしょうか。色々物を考えている人、という感じの自己イメージでやっているのですけど、あまり的確な肩書きが無いので……。

早稲田大学で教えたりしているので、早稲田大学教授とかってやれば本当は通りがすごくいいんですけど、なんか「大学教授」とかってアイデンティティも全然ないので……。」といった具合である。

それこそ失笑ものの「誤読」かもしれないが、あえて東のこの種の発言を深読みすれば、これはデリダの「原エクリチュールの否認」の態度に極めて近い。

デリダは、

偶発性に先立って、その暴力の空間として、原エクリチュールの暴力、差異の暴力、クラス分けの、また呼称体系の暴力が存在する

(J・デリダ『グラマトロジーについて』)という。

「名づけること」は、社会的分類項の一として人物を画定し、個性を捨象する「根源的暴力」である。

個々の名前はその名前のシステムの中で他の名前との差異によって同一性を得ているだけで、それが名づけている個人の唯一性、「固有性」をいささかも表現するものではなく、他の人の名前でもありうる反復可能なものにすぎない。

(高橋哲哉『デリダ』)

「哲学者」「批評家」「大学教授」などと肩書きを名乗ることで、人は社会的に分類される。それは必然的に差異の体系に組み込まれるということで、否定的にしか自己を画定できなくなる、ということである。東の肩書きを名乗ることの否定に関する態度は、こうした自己の喪失の匠な忌避だといえる。

こうした前提をふまえて、東が真にデリディアンだとする筆者の見立てが正しいとすれば、冒頭に挙げた「昔の東は よかった」という批判は、東へのそれとしては成立していない。東への批判は、しばしばデリディアン一般に向けられるように、独我論である、また、ニヒリズムである、などというものであるべきだ。

例えば東は『一般意思2.0』のなかで、「ニコニコ生放送」のコメント(大衆の欲望)が、パネラー(選良の理性)の暴走を止める役割を果たす、という。

しかしニコニコ生放送においては、同じように目の前の相手としか会話を交わせなくても、その会話の行き先の範囲が視聴者の欲望によって枠付けされているという独特の感覚がある。
(中略)
選良が大衆に従うわけではない。選良が大衆の暴走を抑えるのでもない。逆に大衆の呟きによって選良の暴走を抑制するのだ。理性が欲望に従うわけではない。欲望を可視化することでむしろ理性の暴走を抑制するのが、この提案の目的である。

(東浩紀『一般意思2.0』)

しかしこの主張には、反論の余地がある。ここで東の言う「可視化された大衆の欲望」とは、特定のベクトルを持った匿名の特殊意思の総和=一般意思のことである。例えば、「消費増税に賛成である」という プラスの特殊意思と「消費増税に反対である」というマイナスの特殊意思が合計されたとき、その差異の和が一般意思である。

だが、脱構築的読解が明かすのは、選良の理性による、大衆の欲望=一般意思の「誤読の必然性」である。

バーバラ・ジョンソンも指摘するように、脱構築的読解の焦点はテクスト(=一般意思)の客観的な意味ではなく、読みの行為(=選良の理性)である。

であるならば、選良の理性の前に、「一般意思」は、「消費増税に賛成であって、かつ反対であって、かつそのどちらでもない」という、二項対立の否定として現前する。これが、デリダが好んで使った「散種は究極的には何ものをも意味しない」という言葉の意味である。

この一見言説を無化するような性質をもって、しばしば脱構築は、非難の的に晒されてきた。例えば

ド・マンは、従来脱構築は「無害な学問的遊戯として片付けられる」か、「テロリストの武器として非難されてきた」と不満をもらしている

(Ch・ノリス『ディスコンストラクション』)。

だが、本当に脱構築はニヒリズム的な「遊戯」なのか。「読み」の不可能性を示すだけの「武器」なのか。もしこれらの非難を認めてしまえば、東は単に「学問的な厳密さに耐えられなくなった俗物」ということになり、「昔の東浩紀は良かった」という「批判」も妥当なものになる。

しかし、脱構築の実際は、真理の否定をするものではない。むしろそれは、真理の強化に作用する性質のものである。

バーバラ・ジョンソンは、「あらゆる読解は誤読である」という、脱構築の性質を端的に示すこの一文は、真実の観念を否定するものではなく、

ⅰ.読解の正しさの裏づけとして持ち出される根拠は、読解行為と骨がらみの利害や盲点や欲望や疲労によって動機付けられているが故に、信用などおけないということ、ⅱ.真実の果たす役割は、そうやすやすとは消去できないこと、である(B・ジョンソン『栄光と転落』)

という。したがって、

……読解のときに従わねばならない命令が一つだけあるとすれば、それは、いま自分がおこなおうとしている種類の読解を疑問にふすようなものを、つねに念頭におくということである

(前掲書)。

つまり、徹底的な懐疑の上に、より高度な真理を探究すること、それが脱構築の姿勢である。そして、この姿勢の元に、「解釈の共同体」ができあがる。

決定の、決断の、絶対的な決断性の、しかしまた脅かされた共同体。問いはまだ、それが探究しようと決意した言語を見出していないし、共同体の内部でのそれ自身の可能性を確信してもいない。問いの可能性についての問いの共同体。それはまことに微々たるもの、ほとんど無である。だがそこにこそ今日、決定の尊厳と打ち消しえない責務、打ち消しえない責任が潜んでいるのである。

(J・デリダ『エクリチュールと差異』)

さて、東はかつて『棲み分ける批評』(本稿の冒頭は当論文のパロディである)において、当時の論壇の状況を「アカデミズムとジャーナリズムへの激しい二極化」と評した。

アカデミックな批評には社会的緊張がなく、逆にジャーナリスティックな批評には知的緊張がない。つまり前者にはメディアの意識がなく、後者にはメッセージの意識がない。言うまでもなくこの二極化自体、批評を多少は貧しくしている。

(東浩紀『棲み分ける批評』)

しかし、そこで東は、より本質的な問題は、双極が対立関係にあるのではなく、むしろ互いの役割を認め合って共存していることである、という。二極化した批評が、内容的に対立しない。

故に、批評的なメッセージが批評的に流通しない、という状況が生じている。アカデミックな批評が一般に流通しないということは、必然的に、読者の不在ゆえに「解釈の共同体」が成立しない、という結果をもたらす。

そうなれば、脱構築的読解もまた、必然的に衰退する運命にある。(脱構築にとって)悲劇的なこの状況がなぜ生じたかについて、東は二つの視点を提出している。

すなわち、「徹底化されたポストモダン」と、「哲学的日本語の貧しさ故の哲学的言説の難解さ」である。前者は、形式のみが重視され、その「内容」が全く問われなくなった、という現代的な視点であり、後者は、横文字を縦文字に直すことがすなわち哲学をする、ということとイコールであったこの国の伝統的な視点である。

筆者の見立てでは、東の実践は、一貫してこの無様な二項対立的状況、すなわち、「アカデミズム/ジャーナリズム」の二極化状況の脱構築によって、解釈的共同体を成立させることである。

つまり「アカデミズムか/ジャーナリズムか」と語ることでも“なければ”、「アカデミズムも/ジャーナリズムも」と語ることでも“なければ”、「アカデミズムでもない/ジャーナリズムでもない」と語ることでも“なければ”こうした二項対立論理すべてを廃棄するわけでも“ない”。それが、東浩紀の一貫した立場である。

形式が重視さ れる消費社会だから、『思想地図β』という「雑誌」を造り、また哲学的言説が難解すぎるから、『一般意思2.0』は論文としてではなく、「一般書籍」として発表する。ニコ生思想地図も、ゲンロンカフェも、おそらく同一の意図の下につくられたものだろう。

だとすれば、我々は最早「昔の東浩紀はよかった」などと愚痴をこぼすことはできない。

昔も今も、東浩紀は一貫して脱構築の実践者だからである。

石崎 貴嗣
大学生

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