安倍首相は「靖国問題」で墓穴を掘ってはならない。

松本 徹三

アベノミクスは、「将来の経済破綻」という若干のリスクを抱えた「賭け」だったが、予想を超えるスピードで円安と株高をもたらせたので、多くの企業の業績が上がり、経済の前途を前向きにとらえる心理も生まれ、先ずは上々の滑り出しだ。それ故に、安倍内閣は現状で高い支持率を誇っている。


ただ、「事に敗れるのは得意の時にある」という格言にもあるように、安倍首相はここで調子に乗って脇を甘くすると、思わぬ陥穽に落ちる恐れがある。「靖国問題」での安倍首相の答弁をテレビで見た限りでは、この危険性はかなり高いように思った。現在の高い支持率に安心してか、首相に就任した当時の慎重な姿勢が見えなかったからだ。

政治家の使命は「国益の最大化」だが、現在の日本では「中国、韓国との良好な関係の構築」がこの為の重要な一要素である事は言を俟たない。一般の国会議員はともかくとして、日本国を代表する首相ともなれば、この事はいつも肝に銘じておかねばならない。安倍首相は、もともと中国等に対して毅然たる態度を取る事を自分のスタイルにしており、「現在の環境下ではこのスタイルは大方の国民に受ける」と踏んでもいるようだが、油断は禁物だ。

実は、私は、毎年恒例の「靖国参拝問題」には、ほとほと嫌気がさしている。「首相や閣僚にも選ばれる程の人達に、何でこんなに単純な事が分からないのか?」という思いが強いからだ。自分達の思いがどうであれ、「政治や外交には何よりも我慢が大切」と考えるべきは当然ではないのか?

それ以上に、「靖国参拝」を自分の選挙運動に使おうという魂胆が見え見えの国会議員等を見ると、更に苛立ちが募る。多くの政治家が「目先の選挙」を「長期的な国益」より優先させるのは悲しい現実だが、徒党を組んでこれ見よがしに参拝するこの人達のドヤ顔を見ると、「この人達は『国益』というものの複雑さをどれだけ分かっているのか?」という思いが強くなる。これでは、竹島に上陸して人気を取ろうとする韓国の国会議員と何ら変わる事はない。

私の考えは単純明快で、戦犯の分祀が実現したり、中・韓両国の考えが変わったりしない限りは、首相や閣僚は、靖国神社に「公式に近い形での参拝(目立つ形での私的な参拝を含む)」はすべきではないという事だ。

その理由も単純明快で、「これをやれば中・韓両国が神経質に対応する事は分かりきっており、そうなれば両国との関係は悪化し、そうなれば、経済面でも安全保障面でも日本の国益が害される」と考えるからだ。

米国でさえ、日本がここにきて「国家意識」を前面に出して、これが東アジアにおける日本の「孤立」につながっていく事を心配している。「日韓が結束して巨大化する中国を牽制する」事を考えても然るべきなのに、逆に「中韓を結束させて日本と対峙させる」ような材料を提供する事は、地政学的な戦略の上からも極めて拙劣だ。

日本政府は「この問題は日本人の心の問題であり,外交問題ではない」と発言したと聞いたが、もしこれが事実なら、こんな馬鹿げた話はない。「外交問題」とは「二国間の問題」であり、二国のうちのどちらか一方が「外交問題だ」と考えるなら、それは自動的に外交問題なのだ。「一方的な解釈」は外交に関連しては無価値だ。

これでは、二人の人間の間で意見の相違があって、一方が怒って「あなたとは絶交だ」と言っているのに、もう一方が「怒るのは筋違い、絶交はあり得ない」と言っているようなもので、全くナンセンスな話だ。一方がどう考えようと、「もう一方の怒り」や「絶交という事実」はなくならないからだ。

数日前に或る極めて親日的なイスラエル人と話す機会があった。彼が「靖国問題について中・韓がとやかく言うのは内政干渉だ」と言ったので、私はこう聞いてみた。「そう言ってくれるのは日本人としては嬉しいが、仮にベルリンに大聖堂があり、そこにはかつてのドイツ軍の兵士が、ヒットラーやゲーリング等とともに祀られていて、そこにメルケル首相が花束を抱えて恭々しく参拝したら、あなたはどう思いますか?」

彼は、直ちに「絶対に許せない」と言い、それから、しばらくの間考え込んでしまった。彼は相当なインテリで、今迄日本人の友人から「人間は死ねば全てが浄化される」という「日本の精神文化」の話を聞いてきていたので、その流れで、「靖国問題」についても日本人に同情的だったわけだが、私の問いかけから、「靖国問題」の本質が実はここにある事を、初めて理解したのだと思う。

勿論、「東條元首相や、まして況や広田弘毅元首相を、ヒットラーと同一視するのは不適切だ」とか、「東京裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた茶番劇に過ぎず、道義的な問題とは無関係だ」と言って、これに反論する人は多いだろう。しかし、こういう問題は人によって意見が分かれるものであり、そういう議論で中国人や韓国人を納得させるのは不可能に近い。

「靖国参拝」には、「無垢な気持で国の為に戦い、死んでいった多くの兵士達の為に祈る」という側面も勿論あるが、多くの外国人は、その事に思いを致す前に、「日本軍の過去の行いに対しては、現在の日本人は別に何の反省もしていないし、罪の意識も持っていない」という事の表明と受け取るだろう。

そうなると、「もし多くの日本人に反省や贖罪の気持がなく、むしろ過去を美化したいという欲求があるのなら、近い将来、また同じ事を繰り返す可能性もある」と彼等が考えて、これに対して身構える事も防ぎ得ない。

これを防ぎたいと思うなら、少なくとも「遊就館」のような施設は別の場所に移すべきだ。靖国神社は「平和で静かな祈り」の場とし、「戦争の現実を含めた昭和史」を客観的に見る為には、その目的に合わせた「歴史博物館」を別に作れば良い。遺族達が、靖国神社に参拝した後、別の場所に移動して過去を懐かしむ事は一向に差し支えない。そこで会合を持ってもよい。しかし、「英霊を悼む精神世界」と「歴史」は切り離すべきだ。

更に、ドイツとは異なり、日本にはもっと難しい問題もある。国体は変わっても、天皇陛下ご自身は在位を継続されたし、国旗も国歌も今なお戦争中のものと同じだという事だ。

最近、渡邊謙の出ている「シャンハイ」というハリウッドの映画を見たが、日本軍が遂に上海に進駐してきて各国の租界を接収し、方々のビルに一斉に海軍の旭日旗を掲げるシーンがあった。本当は旭日旗ではなく日章旗が掲げられたに違いないのだが、制作者側が配慮してくれて、観客が「過去の日本」と「現在の日本」を同一視しないように、敢えてこのような演出にしてくれたのではなかろうか。

私は、「日の丸」にも「君が代」にも肯定的で、その継続使用には勿論何の異論もないが、相手の立場に立てば、これさえもが、心の中では若干は疑念の対象になっているだろう。だからこそ、日本政府や日本人は、中韓やアジアの近隣諸国と接するにあたっては、戦後100年間ぐらいの間は、普通以上に気を使って然るべきなのだ。

人間は集団への帰属意識の強い動物で、誰でもが自分の帰属する集団を愛し、近くにいる異なった集団を蔑視したり、敵愾心の対象にしたりする傾向がある。これは世界中の各民族に共通した事であるが、人間としては、恥ずかしく、且つ愚かしい事だ。

一方がこのような態度を取れば、必ず相手もそれに対応するから、直ぐに悪口の応酬となり、さしたる理由もないのに関係はどんどん悪くなる。最悪時は武力衝突に迄発展しかねない。これによって、みんなが損をし、誰も得をしない。

一般の国民は、政治家のように安全保障や経済の事をいつも考えているわけではないから、どうしても勇ましい言葉に酔い、こういった動物的な本能のみに従って行動してしまう。しかし、政治家はそんな風では困る。政治家はそのような国民に迎合するのではなく、長期的な「国民の真の利益」の為に、よく考えて行動しなければならない。

安倍首相にそのような「視点」と「度量(忍耐力)」はあるだろうか? 私は安倍首相の「人柄の良さ」は評価しており、彼の「無垢な英霊に対する思い」は恐らく心からのものだろうとは思っている。それならば、一人官邸で、心の中で静かに祈っていてほしい。首相なのだから。