メディアが阻む国際技術競争力

真野 浩

 今日から、無線LANの世界標準等を協議するIEEE802ワイヤレス中間会合が、ハワイ島ではじまった。年に6回、毎奇数月に開催される標準化会合で、私は、タスクグループのチェアとして、リーダーシップの一端に座っている。いつものように、開催前日あたりから、参加者がどんどんホテルに到着して、初日の今日は日本からの参加者も沢山現地入りしてきた。
 とりあえずの挨拶もそこそこに、いきなり今日の話題になったのが、日経新聞の一面を飾った「無線LAN速度10倍 NTTなど20社で国際規格 3年後実用化へという記事だ。
 昨日から現地入りしている私は、まだその記事を読んでなく、慌ててインターネット経由で読んだのだが、あまりの記事の質の悪さに唖然としてしまった。


 私は、過去にもこの類いの記事の質について、アゴラで意見を投稿したことがあるが、今までは多少なりとも技術的な知識というか理解力の問題に起因するところもあり、取材に応じた技術者らの説明不足だったりする点も否めないことはあった。 しかし、今回の記事の問題は、技術的な理解の齟齬とかではなくて、明らかに取材の質の悪さに起因しているし、それは技術記事じゃなく、政治記事等にも共通して求められる最低限の事実確認や用語確認すら出来ていない、または恣意的にそれらをご都合主義的な記事にしているメディアの体質に関するものだ。

 では、その問題点を記事を見ながら,順に示していこう。
この記事が示しているのはIEEE802.11の中間会合で明日から始るHEW-SG(High Efficency Wireless LAN – Study Group) の事であるが、記事の冒頭の段からいきなり理解不能な提灯のオンパレードである。

まず、冒頭には

オフィスや家庭、街中で場所を問わずインターネットが使える無線LAN(構内情報通信網)の次世代技術を世界の情報通信企業、約20社が共同開発する。NTTや米クアルコムなどが速度を10倍に高める技術を持ち寄り、国際標準規格をつくることで基本合意した。

とある。

そもそも、HEW-SGのSG(Study Group)というのは、標準化をするべきなのか、標準化による市場成長性が期待出来るのか、技術的な可能性はあるのか、経済的な可能性はあるのか、他の標準規格と重複や過去の規格との互換性などについて、調査して、標準化を始めさせて欲しいという要求文章を作成する事を目的に設置する。つまり、今の時点で、「国際標準規格をつくることで基本合意」なんて、されていない。

そして、もっと問題なのは、「次世代技術を世界の情報通信企業、約20社が共同開発する。」とあるが、これは参加各社がそのような共同開発を合意し発表したというのならまだわかるが、そのような発表もない。これは最近同紙が季節の風物詩のごとく乱発している「xxxx いよいよiPhone導入」と同じレベルだ。

さらには、「速度を10倍に高める技術を持ち寄り」とあるが、このHEW-SGでは、このうよな具体的な目標や技術的内容に踏み込んだ議論は、未だ始ってもいない。

実は、このHEW-SGは、技術的に頭打ちにある無線LANについて、その次をどうするんだという強い動機から議論が始っているのは事実だし、IEEE802.11に参加しているほとんどの企業が興味をもって、Study Groupの設置に賛同しているから、まぁ誇張した記事としての方向は間違っていない。しかし、実際問題、従来の標準化のように特定の技術的課題が共有化されて、それを解決しようという話ではなく、電波の使い方そのものや、制御、あるいは実際の利用サービスの範囲まで含めた、かなり広範囲の検討をすることになっているのだ。

さらに、この記事の中程の段落では、

 5月中に標準規格の策定作業に入り、周波数帯や通信方式、携帯電話回線との連係の仕組みを詰める。国際標準規格として決まった後に、正式に「次世代Wi―Fi」と呼ばれる見込み。

とある。

この「5月中に標準規格の策定作業に入り」というのは、敢えて書くなら「5月中に標準規格の策定の必要性について議論を開始する」とすべきだし、「正式に「次世代Wi―Fi」と呼ばれる見込み」に至っては、そもそもWi-Fiという用語がWi-Fi alliance という民間のコンソーシアムの名称で、そちらではStudy Group以前の動きさえないのに、誰が、どなん根拠で見込んじゃったのとツッコミたくなる妄想としか思えない記事だ。

そして、極めつけは、

次世代Wi―Fiの最大速度は現在の10倍の毎秒10ギガ(ギガは10億)ビットと光回線並みになる。

である。

もう、この「光回線並み」という形容詞は、同社の記者が使う辞書で「いまより早い」とタイプすると自動変換されるんじゃないのと思うくらい、昔から使われているフレーズだ。これは、随分昔に、WiMAXという無線技術をさんざん取り上げていた時も、よく使われていて、この会社の記者の語彙の豊富さの象徴みたいな枕言葉かもしれない。

さて、私は、言葉や用語の使い方に難癖をつけて、揚げ足取りをしたくて、この投稿を書いてるわけではない。今回、IEEE802.11に参加している多くの人から、この記事についての疑念の声を実際に聞いた上で、自分でこの記事を読み、標準化の現場にいる者として、あまりに事実とかけ離れた記事が、平日の朝刊一面を飾ったというので、その影響を恐れて敢えてここに投稿することにした。

一般に経済紙は、その読者層が技術に詳しい人だけではなく、企業や官庁の意思決定権者も多いだろう。従って、そういう人達にとっては、技術用語ではなく平易な用語で書かれたこういう記事は、世の中の技術動向を知る上で重要な役割をもつ。

だからこそ、細かい詳細ではなくて、いつ誰が誰と合意したとか、世界的に影響力のある機関が何かの意思決定をしたとかいうことを伝えるには、相応の取材と根拠のもとに行なうべきだろう。同じ記事でも、多くの参加者の賛同得たという書き方と、多くの参加者が合意したでは、標準化の現場を知らない人からみたら、受け取る印象がまったく異なってくる。

確かに、ネタとしては、今回の記事は、それなりに人目も引くし、インパクトも強い。でも、こういう記事が出ると、それが一人歩きしてしまい、過度の期待によって、開発投資等に対する経営判断の優先度に誤りを引き起こす事になる。

事細かい標準化の現場の綿密な取材をする事を求めているのではなく、最低限の事実確認や、相応な裏取りをするというのは、記者に最低限求められることではないだろうか?

こういう流行もの追いのメディアや、時にそれに便乗する有識者によって作り出される、上辺の技術トレンドが、技術開発を大きく蛇行させ、無駄な投資や時間を浪費させる恐れがあることを忘れずに、真摯な取材と記事を提供してもらいたいものだ。

まぁ、メディアというのは、結局真摯な取材なんてなくて、誰かの恣意的なプロパガンダでしかないから、受け取るほうがしっかりとしろという意見もあるかもしれないが、メディアの中立性に期待している人が多いのも現実だ。

また、グローバルな世界で、大きな意味をもつ標準化のリードは、ある種の公平さ,透明さが重要なのだが、こんな記事が翻訳されて、他の国の標準化に関わる人達の目に触れれば、それが今度は日本の貢献に対する不信につながるということも、最後に加えておきたい。