「記者」が政治家の発言の制限を求めた時に、報道の自由は消える!

北村 隆司

「新聞記者でありながら、現在の日本におけるメディアの報道姿勢には懐疑的である。チャンネル桜に出演した際に自分がメディアの中にいてこんなことを言うのは恥ずかしくて仕方ないが、メディアに良識を求めても仕方がない。メディアにそんなものはない」

日本国民の大多数がこの言葉に納得してしまう現実は誠に哀しい限りですが、これが産経新聞の政治部編集委員で「阿比留瑠比の極言御免」コラムの筆者である阿比留記者ご自身の言葉だと言うには驚く他ありません。


その阿比留記者は5月16日の電子版のコラムで「悪いことは言わない。民主党はもう、菅直人元首相に発言の場を与えない方がいい」と公党に対し所属議員の発言の制限を求めています。

これは良識に欠けると言う依り、ジャーナリストとして守るべき最低の倫理にも反する行為です。

戦前に弾圧された哲学者の三木清が「ジャーナリストは公平な批評家であるよりも、むしろ党派性意見の代表者である」と喝破した通り、阿比留記者はかなり鮮明な党派性の持ち主ですが、言論と報道の自由は「過激な主張」への寛容があって初めて成り立つ以上、阿比留記者の主張にいくら反対であろうとも、これを黙らせる事は許されません。それは :

私は君の意見に賛成しない。しかし、君がそれを言う権利は命を賭けても守ろう。( ヴォルテール)

自由とは常に思想を異にするもののための自由である。( ローザ・ルクセンブルク)

等、多くの名言、至言に残されている通り、自らの血を流して自由を闘い採った欧米では「他人の言論の自由を死んでも守る」事が自由を守る為にジャーナリストや国民に課せられた「鉄の倫理」である事が常識だからです。

こうして守られて来た報道の自由は、ジャーナリストが他人の言論の自由を脅かす発言をした時に、そのジャーナリストの報道生命が終わる事が前提で成立して来ました。

処が、報道をの自由を他人から与えられた日本では、チェックすべき政府機関の審議会メンバーに報道機関の幹部が就任したり、色々な協定を結んでお互いの競争を制限する事が当たり前になり、報道の自由を第四の権力と取り違え、反対意見を控えさせる暴挙を暴挙と思わなくなってしまいました。

これこそ、危険な平和ボケの典型です。

言論の自由は国民に与えられた権利であり、報道の自由は言論の自由を守るために報道に与えられた特権です。この特権を悪用した時に報道の「既得権化」が始まり、言論統制へと進む事は世界の歴史が示す通りです。

ジャーナリズムにとり、「他人の言論の制限」を求める記事は、捏造記事や虚偽報道より重大な違反行為で、阿比留記者のコラムの様な、反対意見の制限を示唆する記事の存在は若葉の内に摘み取らないと、日本の報道は北朝鮮や中国と区別がつかなくなる日がくるのは間違いありません。

政治家とジャーナリストにとって、言葉が命である事は共通ですが、政治家は少なくとも選挙の洗礼を受けていますが、日本の大手報道機関に属する記者は身分を保証された所詮はサラリーマン記者に過ぎません。

だからこそ、競争の激しい英米などの先進国なら生きられない低レベルのジャーナリストが、日本では蔓延れるのではないでしょうか?

特定の政治的立場から言論の自由を脅迫する行為は、言論にたずさわる者の自殺行為であるばかりか、決闘に替えて論戦を通じて物事を決める事にした民主主義の原点にももとる行為です。

総理在任僅か2ヶ月で「予算会議にも出られない健康状態では、総理たる資格がない」として自ら辞任した石橋湛山元首相のいさぎよしさとは比べ様のない醜い引き際の菅元首相に就いては、私もその危機管理能力の欠如などを考えると、有史以来最低の総理だとは思いますが、それと発言の制限は全く別物です。
反対意見を持つ人の自由を守ると言う最低限の「倫理観」もない記者が。自ら認める「良識のない」メディアの安定した身分に拘泥し、論敵の発言の制限を求める倫理違反を犯しても筆を折らない様では、日本はどの面下げて世界に情報を発信できるのでしょうか?

2013年5月25日
北村 隆司