MERS(中東呼吸器症候群)のパンデミックリスク --- 外岡 立人

アゴラ

2012年9月20日に、新型コロナウイルスによる重症肺炎と急性腎不全を合併するカタール人患者の発生が報告された。ウイルス分析で、同年6月にアブダビで発病した患者から見つかっていたウイルスと同じであることが確認された。

その後、新型コロナウイルス感染者は、サウジアラビア、カタール、ヨルダン、アラブ首長国連邦、チュニジア、英国、ドイツ、フランス、イタリアで確認された。中東以外での発病者は、中東旅行後に発病が確認され、ウイルス感染は中東旅行中に起きたと考えられている。6月1日の時点で合計51例の感染者と30人の死亡者がWHOにより確認されているが、今後多くの報告が相次ぐ可能性が高い。


先のWHO伝染性疾患対策責任者で、現英国健康保護庁長官であるデービッド・ハイマン氏は、「非常に重症な感染症だ。H5N1鳥インフルの危険度のカテゴリーに入れるべきものだ」と表現している。

英国(2月)、フランス(4月)、チュニジア(5月)の事例では家族内感染、または院内感染が起きている。

■MERSコロナウイルス

この新型コロナウイルスは、現在、MERS(マーズ)コロナウイルスと呼ばれ、2003年に流行したSARSコロナウイルスと近縁である。しかし、遺伝子構造には違いがある。

SARSコロナウイルスはコウモリを感染宿主としたコロナウイルスの一種が、その後変異してジャコウネコなどに感染するようになり、その後人にも感染する変異型が誕生して、先のSARSの流行となった。

SARSコロナウイルスはコウモリに感染する能力は失い、歴然とした人を感染宿主とするウイルスであるが、今回分離されたMERSコロナウイルスは、やはりコウモリを感染宿主としたコロナウイルスが豚、そして霊長類に感染するようになり、そして人にも感染するするような変異を遂げたと推定されている。

しかし、問題は、人に感染するようになったMERSコロナウイルスが、未だコウモリや他の哺乳類に感染する能力を保持していることである。

これは、2012年にドイツとオランダの研究チームが培養細胞への感染実験で明らかにしたものである。元々の感染宿主への感染能力を保持したまま人を含む哺乳動物へ感染するという事実は、同ウイルスに対するリセプターを多くの哺乳動物(肺の細胞)が保有している可能性を示唆している。

この事実は、現在のMERS発症者が動物と人、両者からウイルス感染していることを示唆している。

SARSコロナウイルスの場合、人の肺の奥のリセプター、angiotensin-converting enzyme 2 (ACE2) receptor、を介して感染するが、MERSコロナウイルスの場合は、全く別なリセプターを介するとされる。

■これまでに確認された人人感染

MERSコロナウイルスはこれまで数か所で集団感染(クラスター感染)を起こしたことが確認されている。すなわち、人人感染を起こしている。

1ヵ所はサウジアラビアの一家族内での集団発生である。5人の家族員が感染し、3人が死亡している。この例では人人感染した可能性は高いが、ウイルス感染している他哺乳動物から感染した可能性は完全には否定できていない。

しかし、もう一ヵ所のヨルダンの病院内集団感染では、明らかに人から人への感染が起きている。

当事例は2012年4月に起きたものであるが、ある病院内のICUで11人の重症呼吸器感染症が発生し、それも8人が医療担当者であり、そのうち2人が死亡していた。

当時ヨルダンの保健当局では、カイロにある米海軍医学研究所(NAMRU-3)に依頼してウイルス検査を行っているが、既知のコロナウイルやSARSコロナウイルスは全て陰性であった。

しかし、同年10月にMERSコロナウイルスが発見されたことから、ヨルダン政府は再度NAMRU-3に、保存検体の検査を依頼したところ、2検体(死亡例)でMERSコロナウイルスが同定された。

これまでWHOが把握していた情報では、2012年6月にアブダビで男性が初のMERSコロナウイルス感染者として同定されていたが、ヨルダンの事例で、その2か月前にはすでに同ウイルスの感染者が出ていたことが明らかとなった。

しかしながら、ヨルダン保健省は、重症呼吸器感染症を起こした11人の詳細と死亡した2人以外のウイルス検査結果を発表していないため、いまだ集団感染の詳細には不明な点が残されている。

■最近の状況

そして2013年5月、サウジアラビアの東部地区の病院で院内集団感染が起きた。この地区では、2013年4月中旬から5月上旬にかけて22人の感染者が見つかり、10人が死亡している。病院内での感染が主とされているが、地域内での人人感染も起きている可能性をWHOは疑っている(2013年5月)。また2人の医療関係者が患者から感染を受けた。

また同時期の5月上旬にフランスでも、アラブ首長国連邦から帰国した旅行者が発病し、入院した病院で同室の患者にウイルス感染が起きている。最初の感染者は28日に死亡している。この時の事例の分析でMERSコロナウイルスの潜伏期間は9~12日と発表されている。

WHOの情報把握は全て後手後手となっており、アラビア半島以外の国にウイルスが拡大していないとする根拠がない。そのため、2012年11月末に、地域を問わずに重症呼吸器感染症の集団発生が見られた場合は、即刻WHOに報告するとともにウイルス検査(WHO協力機関に検体を送る)、そして感染者の隔離と感染拡大の措置を図るよう、加盟国への通知がなされている。この通知は繰り返しなされている。

■パンデミックのリスクと今後の展望

当MERSコロナウイルスによる重症呼吸器感染症の集団発生が中東以外の地域で発生していることが確認されだしたら、それはかつてのSARSと同じようにパンデミックの始まりを意味する。

そうした意味で、は当ウイルスの監視体制は強化される必要があると同時に、パンデミックの予兆があった場合を想定して感染予防対策の強化を図る必要がある。

重症肺炎と急性腎不全を多くの例で引き起こすことから、もし集団発生が起きると、かつてのSARSを超える怖い感染症となることは明らかである。

これまでの報告例の大半は50代以上の高齢者であり、多くが慢性疾患を保有している。若年者では軽症で治癒している可能性があるのかもしれない。

なお、ワクチンの製造は、技術的にも期間の上からも困難とされている。

現時点ではMERSコロナウイルス感染症に対する有効な特異的予防および治療手段はない。臨床の場では抗ウイルス効果が期待されるインターフェロンとリバビリンが使用されている。

2013年の年次WHO総会において、事務局長のマーガレット・チャン氏は、5月27日の閉会のあいさつで、現在最も危惧している問題は中東のMERSコロナウイルス感染症であるとし、そのために世界中が情報共有と対策を強化しなければならないと警告した。

そして、WHOとサウジアラビア当局がもっとも懸念しているのは、10月のメッカ大巡礼で世界から300万人を越える巡礼者が集まることである。巡礼者達がウイルス感染して母国に持ち帰る可能性がある。

2013年6月1日現在、公式に世界から報告された感染者数は51人、死者数は30人となっている。

しかし、ヨルダンで多数発生している疑いやサウジアラビア以外にウイルスが拡大している可能性が指摘され、すでにパンデミックに対する不安感が関係者の間で高まっている。

【用語の説明】(他にもいくつかの表現が国際報道・論文で使用されています。)
 MERS、マーズ=中東呼吸器症候群
 MERS-CoV=マーズコロナウイルス、MERSコロナウイルス、新型コロナウイルス

外岡 立人
医学ジャーナリスト、医学博士


編集部より:この記事は「先見創意の会」2013年6月4日のブログより転載させていただきました。快く転載を許可してくださった先見創意の会様に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は先見創意の会コラムをご覧ください。