ジャーナリストの使命とは?

2013年06月10日 06:30

「ジャーナリストには中立性が求められる」という事がよく言われるが、この事については疑念を持つ人も多いだろう。事実関係を報道するにあたっては「中立性」は極めて重要で、そこに自分の価値観を差し挟んではならないというのは、その通りだと思う。しかし、通常、新聞・雑誌の記事やラジオ・テレビの報道は、「事実」だけを報じて「それでお終い」というわけにはいかない。


「中立性」の反対語は「偏向」ではないかと思うが、考えてみると両方とも極めて曖昧な言葉だ。「何に対して中立なのか」「何に対して偏っているのか」がはっきりしないからだ。読者は、自分の考えと違う報道や論説に対して「偏向している」と非難する事が多いが、その読者自身が「中立的」であるという保証はどこにもない。

「ジャーナリズム」のチャンピオンはこれ迄は常に「新聞」だったが、新聞の生い立ちを遡ってみると、多くの「ブロガー見習い」が自らブロガーであった「社主」の周りに集まって来て、一つの論調を形作ってきたように思える。だから、それぞれの「新聞」がそれぞれの立場を持つこと、言い換えれば、それぞれに「偏向」しているのは、いわば当然だと言える。

日本の現在の全国紙については、「朝日は左翼、産経は右翼、読売や毎日はその中間」という事がよく言われているが、言われるほど大きな差はないように思う。恐らく「商業主義」と「記者クラブ制度」が災いしているのだと思うが、全般的にステレオタイプだ。

私はあまり良く知っているわけではないが、海外の新聞ではもっと論調に差が大きいと聞く。例えば、古い話で恐縮だが、私が40年近く前に住んでいたシカゴでは、第二位の部数を誇っていたサンタイムズの論調が極めてユニークだったので、その事を知人に話したら、「第二次大戦前のこの新聞は親ドイツ(ナチス)で、米国の参戦には一貫して反対していたんだよ」と聞かされた。

ブロガーが集まって始めた新聞社であっても、大きくなると部数をさばく必要が生じるので、どうしても大衆に迎合する。もし私の記憶に間違いがないなら、昭和初期の朝日新聞は、他紙と異なり軍部に批判的だったが、大衆はこれを「生ぬるい」として反発した為、或る時期を境に論調が一転し、他紙以上に戦意を煽るようになった。戦後は更に一転して左翼的になった。これも当初は「大衆の支持を先取りしよう」という意図があったのではないかと私は疑っている。

結論から先に言うなら、ネットの影響力が日増しに強くなっている現状から、新聞は確実に大きな変革期に向かっていると私は考えている。各紙が一斉に一つの論調になると、これと異なる論調のブログ等が人気を博し、足許をすくわれる恐れが出てくる。

ネットのほうは、紙数に縛られる事もなく、多種多様な記事が無制限に出せるが、質の悪いものは次第に淘汰されるし、読者は次第に自分が評価するサイトに頻繁にアクセスする事になる。つまり、新聞の草創期と同じような発展形態を辿る事になるだろう。

但し、ネットが新聞と決定的に異なるのは、コストがかからない事だ。ネットのサイトを運営する人達も、多くのアクセスがあれば広告代を高くする事が出来るから、新聞同様、矢張り読者の喜びそうな記事を優先するようになり、書き手もどういう事をどう書けばアクセスが多くなるだろうかと考えるようになるだろうが、何と言っても、新聞のように「編集」「印刷」「配達」に金がかかるわけではないので、長期にわたって多様性を確保するのが比較的容易だ。

ところで、新聞であれ、ネット上のブログであれ、読者が喜ぶのは、玉虫色の表現を避け、白黒をはっきりさせるような歯切れのよい記事だ。特に、誰かを攻撃し、コテンパにやっつけるような記事は、一定の品位を保っている限りは、多くの読者の支持を受けやすい。

しかし、満州事変から日中戦争に至る頃の日本の世論が「対外膨張(侵略)」を熱烈に支持する方向へと急速に傾いていった事、そして、新聞はこれに警鐘を鳴らすどころか、競ってこれを煽った事を考えると、これは危険な兆候である事が分かる。

世論が熱くなるのは、何時の場合でも、隣国(立場の異なるグループ)等を悪者にして、自国(自分達が属するグループ)の結束を計ろうとする局面であるが、残念ながら現在の日本にもその兆候は若干ある。そして、現時点では、この傾向は新聞よりもネット上の論調に顕著だ。

中国や韓国では反日教育が公然と行われ、国もしばしば民衆の反日的な言動を煽っているので、「何故彼等の理不尽なやり方を黙認し、日本だけが大人しくしているのか?」という怒りが着実に広がっている為に、反中、反韓の議論が支持を集めやすい素地があるのは事実だ。

こうなると、この様な議論に「そうだ、そうだ、全くだ」と雷同するのは容易だが、「いやいや、中・韓の議論には、それなりの政治的或いは歴史的な背景があるのだから、日本が単純に反発するのは賢明ではなく、ここは大人の対応をするべきだ」等と論じても、多くの人達は耳を貸さず、場合によれば「売国の徒」などという汚い言葉で攻撃されるのがおちだ。

「相手の立場を考える」という事は、誰にとっても難しい事であるだけでなく、問題を複雑にするので、多くの人達が忌避したがる事でもある。紛争を未然に防止し、平和と経済発展を実現する為には、これが最も必要な事なのだが、どの国でも、このような努力をする「良識派」は「少数派」に留まらざるを得ない運命にある。

さて、少し本題から外れたので、話を元に戻し、これからのジャーナリストはどのようにあるべきかを論じたい。

私は、キーワードは「競争」だと思う。それも商業主義的な競争(発行部数やアクセス回数の競争)ではなく、質的な競争だ。そして、この「質」の評価は、第一に「正確で広範な事実関係の把握と伝達」、第二に「公平で論理的な分析」、そして第三に、「自らの価値観に基づく主張(戦略的な提言)」の三点に分けて行われるべきだ。

第一と第二の論点に関しては、主観を排することが求められる。即ち、「中立的」で「不偏」である必要があるという事だ。しかし、第三の論点においては、逆に、大いに「主観的」である事が求められ、場合によっては「情熱的」である事も必要だ。重要な事は、前者と後者をごっちゃ混ぜにしない事だ。

全ての議論は、「事実」と「論理(分析)」と「価値観」の三要素をベースとして、この順序に従って整然と行われるべきだが、本来は全ての論者に共通であって然るべき「第一」と「第二」の要素のところで差異が出てしまうと、読者はそこで混乱してしまい、純粋に「価値観」を比較して、自らの立場を見極める事が難しくなってしまう(最近ホットになっている「慰安婦」関係の議論などでも、このような事態が生じている)。

現実には、不幸にしてしばしばこういう事が起こっているのは、書き手が、自分の「価値観」を売り込む為に、都合の悪い事実関係を「隠蔽」したり、場合によっては、積極的に「捏造」したりする事さえあるからだ。これこそ、職業的なジャーナリストとしては、いや、一介のブロガーであっても、絶対にやってはならない事だ。

新聞の場合は紙面が限られているので、「全ての事実関係を漏れなく伝えるのは難しく、編集部が重要と判断したものだけを抜粋するしかない」という事があるかもしれない。しかし、この問題は克服できる。新聞社は常にネットを注意深くチェックし、限られた紙面上ではカバーしきれない「事実関係」や「評論」「提言」の類いの存在を、これらのURLを紙面上に加える事によって、自らの読者に知らせるべきだ。

しかし、そうなると、読者がソファーに座って寛いで新聞を広げている状態から、パソコンの前に移動して、メモしたURLを入力する事を求める事になるので、読者からすれば「そんな面倒くさい事が出来るか。馬鹿にするな」という事になるだろう。

やはり、最良の解は、タブレット等を媒体とした「電子新聞」しかかないだろう。「高邁な『ジャーナリストの使命』の問題を、単なる『道具』の議論にしてしまうな」という声が直ぐにも聞こえてきそうだが、これでは、グーテンベルグのおかげで印刷された聖書がどこででも読めるようにたにもかかわらず、なおも「教会に行って神父の話を聞くのが信仰の唯一の道」と言い張っているのと同じだ。

技術が可能にしたものを軽視し、精神論に固執していれば、戦争の帰趨が既に「銃器の優劣」に依存するようになっているにも関わらず、武士道を至上と考えて敗れ去っていった東国諸藩の運命を辿る事になろう。新聞社はこれ迄以上に積極的にネットとの共存を考え、電子新聞の普及に努力していくべきだ。

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