ノーベル経済学賞 大衆化の意義

小幡 績

今年のノーベル経済学賞が決定した。

文学賞については、村上春樹がとるようなことがあると、この賞の意味は変わってくるが、一方で、経済学賞は、2008年のKrugmanの受賞で、一足早く大衆化が実現した。


ノーベル賞の偉大なところは、やはりその選考結果の秀逸さにある。自分の専門からいって、経済学しか判断できないが、よく決定できると思う。経済学はまだ発展途上であり、結果も確定しておらず、今の常識が将来の非常識にもなりうる中で、毎年、なるほど、と思わせる、妥当な決定を続けるのは偉大だ。

専門家から見て、この人が取るに値するという人であると同時に、今、この人が受賞することの意味も常に意識されている。経済学は社会問題を解決する生きた社会科学であるため、常に、社会への直接的な価値が意識されている。

そして、この社会問題との関係が、2008年のKrugmanの受賞へとつながったわけだが、Krugmanのかつての能力、実績は誰もが認めるところであるが、1994年以降のKrugmanは経済学者を辞め、コラムニストとしてしか活動しておらず、コラムニストとしての経済分析は、かつての実績とは無関係で、単なる経済評論家の一人となっていたから、この受賞には波紋が広がった。

オバマの2009年の平和賞の受賞と並んで、政治的な配慮ではないかという疑義が生じたのだ。平和賞はもともと政治的、大衆的要素があるから、それにより意義が落ちるわけではないのだが(もともと落ちていたとも言えるが)、経済学賞は、このとき初めて、大衆的な認知度、社会的な影響力により受賞となったという認識が広まったのだ。したがって、Krugmanの受賞は、多くの経済学者のノーベル賞への敬意、そして目標として設定することへの意欲の低下をもたらし、ノーベル賞の価値は大きく低下した。

米国が経済学の中心であり、またノーベル賞は過去の実績を表しているということで、40歳までの米国人が対象で、2年に一回(2009年からは毎年に変更)、それも単独受賞(複数受賞がない)、ジョンベイツクラークメダルの価値がますます高くなっていった。

さて、今年は、さらに経済学賞を大衆化したが、今回は非常にいい意味で大衆化したと言える。

専門家的には、FamaとShillerは金融市場が効率的か非効率的かで正反対の立場を取る学派の代表であり、同時受賞というのは、信じがたいことだ。彼らは論争をしているが、論争はそもそもアプローチからしてかみ合わず、終結する可能性はない。そして、一方が正しいとするならば、他方は正しくないのであり、これはあまりに画期的なことだ。つまり、正しいことを言っていない人がノーベル経済学賞を受賞した、ということは100%正しい事実となるからだ。

しかし、だからこそ、すばらしい。それを恐れず賞を授与するのだから、その勇気と誠意には敬意を表する。そして、これはノーベル経済学賞の意義を再度高めることになるだろう。

なぜならば、今回のトピックが、金融市場の資産価格の解明ということだからだ。現実の経済において、もっとも重要で、影響が大きい問題であり、同時に、もっともなぞに包まれている部分であり、社会の側から見たら、現時点において、これ以上重要なトピックはないからだ。

しかも、このトピックは、学問上の設定とは異なる。学問領域のカテゴリーを優先すれば、行動ファイナンスとなるか、現代ファイナンスとなるかで、まったく異なってくるからだ。しかし、現実社会からのイシュー設定からすれば、
学問的アプローチなど関係ない。資産価格の変動について、解明の糸口となってくれる学問が必要なだけだ。

その点で、今回の三者はまるで異なったアプローチを取っており、この三人の業績を解説するには、三人別々の経済学者が必要となるだろうが、その専門家の蛸壺化を超えて、受賞者を決定したことは本当にすばらしいことだ。

私が専門家として解説できるShillerについては、学問的業績からすれば、別の受賞者もありえたのではないか、というのが一般的な意見であろうが、社会的な知名度、影響力からすると、彼が断然であり、これは別の意味での大衆化であり、評価は分かれるだろう。

しかし、その部分の批判を超えて、今回の受賞対象のトピックの選定、アプローチをまたいだ賞の選定はすばらしいことで、社会化、大衆化により、ノーベル経済学賞および経済学の社会的な価値をあげることになっただろう。