反原発という老人福祉

池田 信夫

都知事選の細川(76歳)・小泉(72歳)を菅(67歳)・鳩山(66歳)が「勝手連」で応援するそうだ。全員が元首相で、平均年齢は70歳。反原発は、今や若者の運動でも「反体制」でもなくなった。それは原発が止まったまま貿易赤字を垂れ流す現状維持を求める「超保守」の運動なのだ。


老人が原発をきらうのは理解できる。それは地球温暖化や化石燃料の枯渇などの長期の問題には役に立つが、先の短い彼らの人生には意味がないからだ。「原発即ゼロ」をかかげて、当選の可能性も許認可権もない都知事選に出るのは、老人のお遊びと考えればそれなりに楽しいだろう。官邸デモにも、団塊の世代の引退した老人が多い。

日本は昔から、老人を大事にする国だ。「姥捨山」というのは伝説で、実際に棄民になったのは若者だった。農家の次三男は土地がないため都市に出たが、そこは衛生環境は悪く疫病がはやり、農村より寿命が短かった。日本は既得権を大事にする「後入れ・先出し」の社会であり、この意味でも反原発は日本の伝統を守る運動だ。

人生には意味がない。かつては宗教が意味を提供したが、その力がなくなった近代に、人々は「死の恐怖」に直面する――それに初めて気づいたのがパスカルだった。人々は人生に意味がないことを忘れる暇つぶしのために働くが、仕事がなくなったサラリーマンは何もすることがない。ゲートボールや俳句では飽きてしまう。

そこで彼らが思い出すのが、学生のころの「反体制」の興奮だ。そこには社会を変革するという目的があったが、反戦・平和も、その理論だった社会主義も色あせた。そこに起こったのが原発事故だ。これはベトナム戦争以来ひさびさに出現した絶対悪だ。世間から忘れられた老人が飛びつくのは当然だ。彼らの政策に中身がないのも、それが目的ではないからだ。

人生の目的を提供する老後の心のケアは重要なビジネスだが、日本でこれから宗教を起こすのはむずかしい。その目的を提供するお手軽な代用品として、かつては一国平和主義があったが、今は反原発がある。それは政治運動としては意味がないが、暇つぶしを提供する老人福祉としては意味がある。