ビットコインとは何か

小幡 績

貨幣であるかどうか。

バブルであるかどうか。

本稿では、これを議論するが、思索の過程が長文になっているので、普通の読者は、以下の冒頭と結論部分だけを読まれるとよいかと思う。

後日、要約的なものを書き直す予定である。

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ビットコインとは何か。

貨幣であるか否か。それはどうでもいい。正確に言えば、貨幣であるか否かという問いは無意味であるからだ。

貨幣は貨幣であるから貨幣である。貨幣は人々がそれを貨幣と思えば貨幣であるし、そうでない限り貨幣ではない。

法律で「これを貨幣と定める」とされていても、人々がそれを貨幣として扱わなければ、それは貨幣ではない。

アルゼンチンの通貨が、明らかに法定通貨であっても、人々が貨幣として受け取らなくなる可能性は十分にあり、エクアドルは米ドルを使うようになったし(dollarization)、アルゼンチンも2001年の破綻のときにすら、カレンシーボード制(実質的にドルにリンクするはず)を採用していたにもかかわらず、アルゼンチンペソは通貨でなくなり、暴落した。かつてのブラジルも同じであり、レアル改革が行なわれた。

さて、その意味で、ビットコインをある特定のグループが貨幣とみなせば、それは貨幣であるのであり、そのグループの中では受け入れられ、流通する可能性があるのだから、その場合には、そのグループにとっては通貨となる。渋谷の街中で、ブラジルレアルの本物を渡されても、それを貨幣として受け入れる人は極めて少ないだろう。

それと同じことで、一般の人々にはビットコインが貨幣どころか、全く信用できないものであったとしても、一部の人々にとっては、通貨となりうることはあるのである。

国家とは何かという問いに対する答えは数多くありうるが、その答えとして「通貨発行権をもった主体」というのは、試験の答案としては満点以上の出来であると言えるぐらい、通貨と国家は一体である。

しかし、国家というものは必要ない、いやむしろ害悪であって、必要悪ですらなくただの悪だと考えるアナーキストたちが、アナーキーなビットコインの方が遥かに通貨としてイケていると考えることは、別に驚くことではない。彼らは、国家というものが信用できないというよりも、嫌いであり、嫌いであり、国家から自由であるかのように振舞うことが大好きなのであって、その一貫として、ビットコインを礼賛してきたのであり、いまだにその盲信は続くかもしれない。なぜなら、それは国家からは自由であって、犯罪であろうが詐欺であろうが、そういったことはどうでもいいことであるからだ。

つまり、ビットコインは、それが貨幣だと信じたい人にとっては貨幣なのであって、それが他の人にとって貨幣であろうがなかろうが関係ないのである。これは、貨幣が取引の決済手段としてある以上動かしがたい結論だ。取引相手が受け取るのであれば、そして、その取引相手が、一定のコミュニティあるいは経済圏を形成しており、ある程度の広がりと時間的継続性を持てば、それはすべて貨幣である。

もし、ビットコインが通貨であることに異を唱えるのであれば、一般に通貨とみなされている日本円や米ドルも通貨でないことになる。ビットコインに脆弱性という欠陥があるとすれば、円にもドルにも全く同じ意味での脆弱性が存在することになる。それは、受け取ってくれる人がいなくなった瞬間に価値がなくなるということだ。

貨幣とは、貨幣そのものは貨幣としては無価値であるが、それを受け取って貰えるということによってのみ価値が生じているモノである。これが、貨幣のもう一つの定義の方法だ。円やドルも、明日から誰も受け取らなくなれば、それは価値がなくなる。たとえ金貨であってもそうだ。誰もが、金はとりあえず要らない。飢え死にしてしまうような状況のときは、日本の戦時中と同様に、誰も金貨には眼もくれず、穀物などの食料だけがすべてのモノと交換可能となるであろうし、穀物が通貨となるのであり、それは刑務所におけるタバコと同じことだ。

しかし、私は、ビットコインには批判的だ。批判的だというのは、ビットコインを受け取る気は毛頭ない。そして、人に問われれば、使わない方が懸命だと伝える。それだけのことだ。使いたい人は使えばよい。それが決済手段としての貨幣であり、通貨である。

ビットコインは貨幣か?という問と双対となるのが、ビットコインはバブルか?という問だ。

これは、100%イエスだ。典型的な教科書に載るようなバブルだ。オランダのチューリップバブルやサウスシーバブルと同じ程度の驚異的な歴史に残るバブルだ。

ビットコインを支持し、自分で使うのは自由だが、擁護したり推奨したりするならば、黙ってはいられない。ビットコインを他人に薦めることは、自分が投資しているバブルとなっている金融商品をさらにバブル化する、あるいはバブルが崩壊するのを防ぐことにより、自分の投資の出口としているからだ。

これが一つのバブルの特徴だ。投資した人々が他の人々に買うのを薦める。あるいはメディアなどが取り上げ、礼賛するか、または賛否両論で盛り上がる。これはバブルに置いて典型的に見られる現象だ。

ビットコインの価格が乱高下していること自体がバブルであることを示している。ビットコインが貨幣であることから、決済通貨としての価値が存在し、その価値水準は潜在的な取引相手に受け取って貰えるかどうかで決まる。ただし、決済通貨としての価値は、価値のあるときは一定でほとんど変動せず、高インフレであっても高々年率10%程度で、一日に1%減ることはあり得ない。しかし、信頼を失い、誰も受け取らなくなると、その価値は一気になくなり、紙くずになる。ハイパーインフレとなると、一気に加速してしまうのがその典型だ。国債であっても値下がりを始めて名目利回りが7%を超えると財政は持続不可能とみなされ、一気に暴落リスクが高まる。現在のような低インフレの世界で名目利回りが10%を超えると、通常の国債投資家には受け入れられなくなり、ジャンクボンド狙いのヘッジファンド以外は手を出さなくなり、マーケットで利回り20%などの価格が一応付いても実質的にはほとんど取引が行なわれなくなってしまう。

今回の事件やこれまでも何度か波乱があったが、そのたびにビットコインは暴落したが、復活してきた。これはなぜだろうか。国債がバブルになるのと何かが違うのだろうか。

貨幣の機能とは何だろうか。3つの機能がある。第一が、決済機能である。取引手段としての貨幣である。これは相手が受け入れれば何でも良い。貝殻でも石ころでも羽でもいい。あるいは穀物や金(ゴールド)といった、それ自体で利用価値があるものを貨幣として決済に使ってもいい。一つ面倒なのは、決済手段であるから、人から人へ渡り歩く。茶道具の釜は非常に貴重なもので価値があり、使用するものだが、手で触りすぎると錆が付き価値が落ちてしまう。穀物も同じで賞味期限があるし、途中で汚れてしまったり運ぶときにこぼしてしまったりする不便さがある。したがって、価値が目減りしないものが決済手段としては望ましい。穀物よりも金属、とりわけ金が望まれる理由の一つがこれである。

ここに、貨幣の第二の機能が登場する。価値の保蔵機能だ。流通によって目減りしない価値とは、物理的な減耗と時間的な減耗の二つから自由だということである。したがって、時間を越えて価値の減らないものが貨幣としてより好まれるようになった。それが貴金属であり、目減りもしないし、希少性から時間を経ても価値が失われないような気がして、人々は受け入れたのだ。そのような貨幣の価値の保蔵機能は瞬く間に最大限活用された。今日の利益を明日以降に持ち越すことができる。狩猟から農業に産業が代わり、蓄積が可能になり、貧富の差、権力の差が拡大してきたときだった。それにレバレッジをかけたかのような機能を貨幣は果たした。
個人の人生も社会も変わった。穀物は次の収穫期までの力だったが、貨幣は年度を越えて、将来へつながった。人生、社会が、その日暮からダイナミックな将来のある人生になった。そして、価値を蓄えることが人生の社会の目標となった。

価値を蓄える競争ということは、価値を多く持ったほうが強いということである。そこで権力欲と並んで金銭欲が生まれる。権力とカネは人と社会を支配する手段として確立する。金銭欲は、価値の保蔵では満足しない。勝つために、価値を増やそうとすることになる。ここに、貨幣の第三の機能が生まれる。資産増殖機能である。

これは一般に言われる貨幣の3つの機能と異なる。普通は資産増殖機能ではなく、価値尺度としての機能が挙げられる。しかし、現実には、価値尺度として適切に機能していない貨幣が数多く存在してきた。その一つがビットコインであり、国債である。

国債を貨幣と呼ぶのに違和感があるならば、為替への投資や投機を考えれば、通貨を貨幣と呼ぶのに違和感を持たなければならない。

ここでの議論の焦点は2つだ。

まずは、価値尺度とは何かということだ。

価値尺度とは、慣習で尺度として使っているだけで、実はどの通貨も厳密な尺度たり得ない。もちろん、それはインフレーションがあるからである。貨幣錯覚という言葉があるように、貨幣ですら、いや貨幣だからこそ錯覚し、騙される。信じてしまうだけに騙されるのだ。他のモノの値段が変化しても、後悔はするが、騙されたとは思わない。貨幣価値も同じことなのだ。

したがって、法律で価値尺度として用いられることが定められている通貨ですら、価値は変動するのであって、それは便宜上のものに過ぎない。したがって、ビットコインの取引価格が乱高下したところで、それはなんら驚くべきことでないし、それが本質的に貨幣でないことの理由にはならない。つまり、価値尺度であるということは、実体経済の側に生きる我々としては重要なことであるが、貨幣の側にとってはどうでもいいことなのだ。だから、価値尺度でないからと言って貨幣でないことにはならない。伝統的な3つの役割の定義は誤りなのだ。

これがもう一つの議論の焦点につながる。貨幣の伝統的な3つの機能は分離可能であり、しかし、相互に依存しているという点だ。これはあまり議論されていないが、極めて重要だ。ここに貨幣に関するこれまでの議論の落とし穴がある。

つまり、あるモノXが価値尺度として使われていると、それが理由で決済に使われることになる。決済に使うものは本当は何でもいいのだが、価値尺度も兼ねていたほうが分かりやすい。引渡し場所やその媒介物のコンディションにより価値が変わってしまい、交換比率が変わるのでは困る。しかし、繰り返しになるが、インフレはその交換比率が変わってしまうということであり、一番悪いのは、変わってしまうとは思わないという錯覚に陥っていることだ。

話を戻すと、価値が変化しないという錯覚に陥っているか否かと無関係に、価値尺度として使われているモノは決済として使いやすい。相手も受け入れやすい。したがって、価値尺度となっているものは、決済手段として使われるようになる。一方、決済手段として幅広く受け入れられたモノが、その結果、価値尺度になるかどうかは、一概に言えない。

例えば、日本と中国の間で事業者が決済をするときに、円でもなく元でもなく米ドルを使うことがあるが、だからと言って、米ドルでモノを考えるようになり、価値尺度としてドルを用いるようになるかどうかは分からない。あくまで、それぞれの自国通貨を尺度として、経済的な意思決定を行なうのである。M&Aで米国の企業を買うときにも、米ドルで決済は行なわれるが、日本企業にとっては、その価格は日本円で常に捉えられる。

しかし、段々ドル思考になってくる部分もある。それは為替が変動が大きく、為替の変化に応じて動いていては、長期的な戦略を誤ることになるからだ。例えば、タイと台湾への進出でどちらが望ましいか考えていたとき、バーツと台湾元の短期の動きに振り回されては意味がなく、この場合には、米国ドルベースで考えることになるだろう。グローバルな投資家の多くは、ドル思考であり、世界中を同時に投資対象として考えれば、必然的にドルで考えざるを得ない。

金融投資の世界では、ドル以外でリターンを考える投資家はいない。いるとすればそれはローカルな投資家だ。なぜなら、ある金融商品が値上がりするかどうか、それが投資するすべての理由だが、それは他の投資家が今後買うかどうかにかかっている。他の投資家は世界の投資家であるから、自分の通貨の都合を考えていても意味はない。他の投資家の将来の行動、すなわちそれは将来の市場動向だが、それはドルベースで考えないことには読むことができない。だから、自己都合の為替レートは二の次にして、投資の意思決定をするときにはドルでしか考えないのである。

この結果、すべての投資家がドルで考えるから、投資の世界はドル以外、意味がなくなって来る。こうなると、逆説的だが、ドルが自国通貨である米国の投資家が有利になってくるのだ。これが、第一の機能、価値尺度であることが価値保蔵手段として転化されて使われる構造だ。

貨幣の第三の役割、価値の保蔵手段に貨幣がなるのは第二の役割、決済機能の派生として出てくると考えるのが自然だ。つまり、決済として受け入れられる手段というのは、取引の状況に無関係に価値が一定でないと不便である。したがって、腐らないもの、劣化しないものが使われることになり、それが物理的モノであれば、金や銀、銅などの金属が使われることになる。

劣化しないとは、物理的に劣化しないことからきているが、物理的に劣化しないものとは時間的にも劣化しないものが多い。つまり、将来の価値が落ちないものだ。そうなると当然価値保蔵機能を持つことになり、価値保蔵機能を持つモノは、世の中にほとんど存在しないから非常に重宝がられることになる。

将来の価値保蔵に必要な要素は3つ。第一に物理的に劣化しないこと、第二に時間的に価値が落ちないこと、第三に将来の転売可能性だ。にわたって受け取ってくれる相手が豊富にいること、この3つだ。ここで、第二の時間的に価値が落ちないことと第三の転売可能性とは、つながっている。転売可能性とは、将来、現在と同じ価値で受け取ってくれる人が幅広く多数いることで、そうであれば、時間的価値は落ちないことになる。

では、転売可能性とは異なる時間的価値の維持とは何か。これは非常に難しいが、価格と価値の違いである。価格とは、取引で決まってくるものであり、価値とはそのモノにある本源的に存在するものだ。しかし、モノに内包されている本源的価値とは何か。これには、いろんな立場がある。存在しないという考え方もある。使用価値と取引価値という違いが思いつくが、使用価値とは、自己使用以外の一般的な使用価値とは取引価値となるはずだから、それが取引価格に反映されるはずで、だから、取引価格だけを見ればいい、というのが一つの考え方だ。

株式市場などの金融商品市場における効率的市場仮説とは、その代表で、市場価格がファンダメンタルズという本源価値を反映したものとなっているから、市場価格だけを見ればいいのである。

効率的市場仮説が成り立つ理由は二つである。取引参加者が十分に多数であるので、世の中全体のその金融商品に対する本源的価値評価が集約されるということが一つ。もう一つは、投資対象商品であって、自己使用ではないことだ。

後者の話は当たり前のようで実は奇妙である。使用価値が価格に十分反映されるモノとは、自己使用しないモノであるという逆説が成立している。自己使用しないから他人の使用価値が評価の対象である。しかし、その他人の使用価値とは、その他人が考えるその他人から見た他人の使用価値である。そして、この連鎖が続く。もちろん、これが貨幣の本質であり、岩井克人の貨幣論である。貨幣は貨幣であるから、貨幣である。

ところが、この議論は、貨幣でない株式などの幅広い金融商品について成立してしまう。貨幣の本質は、すべての金融商品について成り立ってしまう。これはなぜだろうか。

それは、貨幣こそが究極の金融商品だからだ、というのが答えだ。貨幣こそが金融商品の始祖であり、また究極であり、本質なのだ。それは、価値の保蔵機能からの必然的な帰結である。そして、その価値の裏づけは、決済機能から生まれてきている。ということは、相手に受け入れら得るかどうかにより価値が決まる。ということは、「売れ」なくては意味がない。貨幣で取引が成立するとは、貨幣が「売れる」ということだからだ。

貨幣こそが金融商品と分かれば、後は何の謎もない。貨幣が第三の機能、資産増殖機能を持つのは当然だ。価値の保蔵をし、カネが権力と同じ支配する力を持つのであれば、それは増えたほうがいい。相対的にライバルに比べて増える必要がある。ライバルに勝つための資産増殖機能を貨幣は持つ。貨幣が幅広く流通すれば、それは受け入れられる取引相手が増える。近代に置いては、市場の広さと深さが力であったから、市場が広がり、経済圏が広がることとなった。そのために貨幣は存在し、貨幣を広く流通させ、その貨幣を使わせるために、経済圏を広げ、それを維持し、担保するために軍事的支配権を広げたのである。

国家とは、支配の機構であるが、目的は、貨幣を使わせることにあった。そして、近代国民国家の成立は、国民という概念により、戦争に人的資源を動員するための手段であったが、近代国民国家は、人的資源を動員し、戦争に勝ち、支配権を確立し、経済圏を広げ、それにより、貨幣を流通させることが目的だったのだ。

なぜ支配が貨幣か。貨幣とは、経済的な支配の手段であるからだ。そして、国家とは、貨幣発行権を得るための機構なのだ。流動性が高まるということは、支配権となる貨幣使用地域、使用領域が広がるということであり、それは支配権の拡大を意味することになる。そして、現代に置いては、軍事力は不要になり、国家の本質であり、貨幣を利用させるという本質に直接アプローチするようになった。基軸通貨と覇権国家が一致するのは当然で、現在は軍事的な覇権国家と貨幣的な覇権国家が同一であるために分かりにくいが、これが分離する可能性もある。

ここまで、遠回りをしておきながら結論を急ごう。なぜ、貨幣が重要か。決済手段として価値の保蔵手段として、資産の増殖手段として利用されることで、世界経済の発展に応じて、貨幣の可能性も数量も流通速度も高まる。その結果、シニョレッジが大きくなるというのが、直接的な結論だ。実は、直接的なシニョレッジに限らず、いわば間接的なシニョレッジもあるのだが、その議論は改めて行うことにしよう。

シニョレッジとは、通貨発行益であり、通貨が流通し続ける限り、発行した主体は、その利益を得るのである。

そして、ダークサイドとも言うべき、貨幣のもう一つの本質はシニョレッジが存在することであり、発行の目的はこれに尽きる。

したがって、中央銀行の成立などは、シニョレッジを得るために貨幣を発行するインセンティブを極力抑えるあるいはコントロールする(インセンティブを完全には抑えてはいないという意味で)ことに英知が絞られてきた。

貨幣の本質が法定通貨であることや価値尺度であることとは無関係であり、金融商品はすべて貨幣となる可能性があることからすれば、ビットコインは、まさに貨幣の王道であり、貨幣そのものである。

ビットコインは金融商品であるから、価格が乱高下するのであり、貨幣の資産増殖機能を果たそうとして、人々は殺到し、バブルを作り上げるのであり、そして、ビットコインが生まれた背景には、何らかのシニョレッジが誰かに行き着くことになっているという意味で、これ以上貨幣らしい貨幣はないのである。

マウントゴックスのビットコインと資金の紛失については、それがシニョレッジのキャッシュアウトであったかどうかは、今後の捜査を待つしかないが、理論的には、構造的に貨幣である以上、そのようなインセンティブが存在するというよりは、その目的で生まれたと考えられるのが理論的な結論だ。

それはビットコインに限らず、すべての貨幣および金融商品に共通する本質であり、ビットコインの構造的な脆弱性は、その技術的な側面にあるのではなく、貨幣であることそのものにあるのだ。

そして、私は、米ドルや円などの発行構造の方が、ビットコインよりも遥かに脆弱性に対する注意が払われていることから、貨幣として金融商品として受け入れるのであり、理論的、本質的には何の違いもないビットコインはバブルに乗るという投機の手段以外としては、かかわりたくないというだけのことだ。そして、投機をする気もないから、かかわりもしない。

なぜなら、この投機は、シニョレッジキャッシュアウトインセンティブの強さから、負ける可能性の高い投機だからだ。これ以上、胴元あるいはインサイダーが勝ちやすい投機もないからだ。

ビットコインは貨幣そのものであり、バブルの典型であり、バブルとしては、発行者やインサイダーが圧倒的に有利な投機であるというのが、結論だ。