メールで謝って何が悪い --- 酒井 秀晴

アゴラ

先般、読売新聞に、内部文書を設定ミスで公開してしまったグーグルに対し、その陳謝をメールで行ったことに対して批判的な記事が掲載された(YOMIURI ONLINE 2014年04月20時「陳謝をメールとは…グーグルに鉄道会社あきれ顔」)。

同記事には(鉄道)会社の担当者の話として「問題を起こしたら直接事情を説明するのが普通」「ああいう会社はなんでもメールで済まそうとする。足を運ぶとか、泥臭いことはしないものなのですかね」とある。


グーグルの社員とてあえて「普通」に反した行為を選択したのではないだろう。彼らにとってはそれが普通であり、普通の基準が違うだけの話だ。よくある世代間ギャップにも通じる。「近頃の若いものは電話や直接会って話そうとせず、なんでもメールで済ませようとする」という類の批判である。

ネットに慣れた側からすれば、直接会って話すより、メールの方がより整理して考えや心情を伝えられると思うのが通常であり、電話で相手の日常に不躾に侵入したり、直接訪問して気を使わせるより、よほど相手の生活や時間を尊重していると考えるものだ。

実際もし謝罪する立場が逆であれば、グーグルの担当者は「おいおい、人に迷惑をかけた上に、わざわざ押しかけてきて受付や俺の貴重な時間を奪うのか」と感じるだろう。手間暇かけてこそ真意が伝わるという考えの底には、相手から奪う時間より、自分が費やす時間の方が貴重という前提がある。手間暇はメールの文面に掛ければ良い。

結局のところ、この記事を書いた読売新聞の記者にも、鉄道会社の担当者の頭の中にも、実際に会って話すことこそが真のコミュニケーションであり、ネットのコミュニケーションなど上辺だけの、偽物にすぎないという強固な信念、もしくは素朴な思い込みが存在しているのだろう。メールなど、亜流のコミュニケーション手段に過ぎない、と。

ネットの議論が紛糾したとき、彼ら旧世代が必ず口にする台詞がある。いわく「ネットで議論が紛糾するのは、表情や身振りがみえないため真意が伝わらないためだ」。しかし、(これは私の20年来の持論であるが)ネットで議論が紛糾するのは、ほとんどの場合、むしろ互いの真意が正確に伝わってしまうからだ。もちろん個別には誤解にもとづく議論もあるだろう。しかしネットの議論を観察すれば、大抵はお互い相手の真意を正確に理解した上で角突き合わせているものだ。文字コミュニケーションでは悪意も批判も正確に相手に伝わり、相手の心に突き刺さる。だからこそネットの議論は紛糾する。

もちろん伝わるのは悪意ばかりではない。それが善意であっても正確に、p波のごとく高速に伝わるのに変わりの無いことは、東北大震災のときのネットの記録を辿るだけでも、いくらでも例は拾えるだろう。

繰り返すが、ネットのコミュニケーションは、現実世界のコミュニケーションよりずっと正確に真意を伝え得るものである。否、嫌でも伝えてしまうものである。それを理解しておかないと、昨今問題になっているネット中毒、ネット依存の問題の本質も見誤ることになる。

そもそも人はネットには中毒しない。ネット依存症といっても、依存の対象はネット自体ではない。

韓国で、ネットゲームにはまりすぎて過労(?)死した事件があった。しかし彼はネットを介してゲーム中毒になったのであり、ネットに中毒したわけではない。アマゾンの買い物やヤフオクにはまって経済的困窮に陥る人も、それぞれ買いもの中毒やオークション中毒なのであり、ネットに中毒しているわけではない。

たとえばwebには、天気や交通情報を知らせてくれるサイトや地図情報を提供してくれるサービスもある。しかしこうしたサービスを利用して天気予報中毒になったり地図中毒になる人は稀だろう。中毒になる対象は、もともと中毒になりやすいコンテンツ自体である。

そしてネット中毒、ネット依存と言われるケースの大部分は、ネットを介したコミュニケーション自体に対する中毒であろう。若い人がメールやラインにはまるのも、教室での上辺の言葉のやりとりより、ネット上での文字コミュニケーションの方が、ポジティブなものであれネガティブなものであれ、より真情が伝わるからであろう。

古来より、人と人とのコミュニケーションは、ほとんどの場合善と見なされてきた。正確に考えを伝え、心を通わせることの大切さは、およそどの社会でも教育の基本とされてきたはずだ。しかしそれは裏返せば、現実社会で人と人がコミュニケーションをとることがいかに難しいかということの証拠でもある。

親子・家族の間でも正確で真情を伝え合うコミュニケーションなどそう成立するのではない。人と人は理解し合おうとして誤解しあう。赤の他人であればそもそも理解しあうなどという努力はしない。唯一例外になり得るのは恋し合う男女くらいのものだろう。コミュニケーション中毒の発生する余地など昔は無かったのだ。

しかしネットの登場によって、初めて人類は赤の他人とも容易に深くコミュニケーションする手段を得た。そうして初めて、コミュニケーションには善の側面だけではなく、負の側面、つまり高い中毒性のあることを発見した。それが20世紀末から現在に至る状況ではないか。

私は専門家ではないので、ネット中毒に対する処方箋をここで書こうとは思わない。しかし、パソコン通信の創世期にそれなりにネット中毒に陥り、まだネット向けの割引サービスの無い時代に毎月二桁万円をNTTに貢いだ経験からすると、この依存症の治療には、結局のところ一度どっぷりネットにはまることで「真のコミュニケーション」に対する免疫を身に着けるしかないような気がしている。

また同じ時期の経験から、妻帯者より独身者、定時に勤務するサラリーマンより自営業者・自由業者の方が、生活の縛りがない分、免疫を獲得するまでにより時間を要したように思う。

人と人とが深いコミュニケーションを持つことがトータルでプラスという前提にたつならば、人生で免疫を受けるタイミングは早い方が良い。そして親や教師の目がまだ行き届き、かつ文字コミュニケーションができるようになる小学校低学年児にその免疫をつけさせるのがタイミングとしてはベストではないか。中学や高校に進み、自分の部屋を持つようになってからでは手遅れだろう。

そうしてネットに適度な距離感を持って接することのできる世代が登場すれば、彼らに伝えるべきアドバイスは次のようなものになるだろう。「現実社会のコミュニケーションは、ネットに比べ表情や身振りに誤魔化されたり言葉が足りなくなりやすい。大切なことはネットで伝え、何でも会って済ませようとしてはいけないよ」。

酒井 秀晴
プログラマー(フリーランス)
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