「死後」の資産管理を考える --- 岡本 裕明

アゴラ

先日、著名な税理士先生を交えてお食事をする機会がありました。その席で出た話題が老後の自己管理。

元気なうちは全く関係ない話だとしても病気や怪我、衰えはある日突然やってくるものです。そしてその下り坂は正に加速度がついて転げ落ちることすらあるのです。だからこそ、元気なうちに一定の準備をしておくことは重要なのであります。税理士先生が指摘されていたのは成年後見人の需要が増えているとのことで今後、この需要は更に伸びていくとみられています。

成年後見人とは判断能力が欠けてきたときにその人に変わって財産管理を家庭裁判所の許可のもと、行う人であります。通常、夫婦であればどちらかが病気になってもどちらかが残り、次いで、残された人は子供たちに面倒を見てもらうという一連の流れがありました。「ありました」という過去形になっているのは今や、その流れは必ずしも当てはまらないからであります。

まず、少子化で子供が減っていることがあります。次に子供も転勤や嫁ぎ先などの事情で親のそばにいないことはごく普通の状態になっています。一方、上野千鶴子氏の説ではありませんが「息子夫婦に『同居しましょうか』と言われることほど苦痛はない。なぜなら、嫁と姑の関係が逆転するからだ」(嫁が親の住む場所にやってくるなら自分の城で采配を振えるが、姑が嫁の家に行くと肩身が狭いの意)となり、結局、おひとり様が最も心地よい老後のライフスタイルということのようであります。

しかし、ひとり身になってどんな元気な人でもいつかは終末を迎えるわけでその過程において頼る人がいないということが発生します。そこに成年後見人の制度があり、その需要が急増しているということなのです。

私も独り者の叔母に財産信託を何年か前に勧めました。人の財産は決して容易い流れではなくあちらこちらに預貯金、有価証券、財産や債務までもが散らばっているものです。銀行口座やクレジットカードが財布の中にたくさん入っている人も多いと思いますが、人間しがらみの中で生きていますから本人しか分からない世界が必ず存在するのです。そして場合により複雑怪奇な迷路のようなその財産のポケットは頭がはっきりしているうちに何らかの形で開示しておかないと永久に開けられないパンドラの箱になってしまうのかもしれません。

バンクーバーである身寄りのない日本人のお年寄りが亡くなり残された財産が1億あったそうです。その行方はカナダの国庫だとすればそれはちょっと寂しい話ではないでしょうか? また、歳をとると突然現れる「親戚と名乗る会ったこともない人」。明らかなお目当てを想像するに、実に見たくない世界だと言えましょう。

一方で成年後見人といえどもどこまで信用できるのか、という不安も付きまといます。お金は人の心を狂わせるというのは世の常です。更に逆のケースも存在します。実質後見人を長年してきたある私の知る「ご近所さん」はその方が亡くなる際に投資用アパートを一軒プレゼントされました。結果として何が起きたかと言えば純粋な好意だったのにご近所からやっかみの嫌なうわさを立てられて引っ越しをせざるを得なくなったという不幸な話もあります。

多くの人は「後見人を立てるほど持つものはないから」とおっしゃる方も多いでしょう。しかし、それは謙遜というもので高額資産を持っているのはほとんどが高齢者です。そして、死ぬ時までにすっからかんに使い切れる器用な人はまずおらず、必ずなにがしかの資産は残るものなのです。その上、わずかな残った資産をめぐって家族親戚で大バトルが繰り広げられるとすれば財産を適当に残して死んでいく人に恨みの一つも言いたくなってしまいます。

結局は自分の始末は自分でするという世界に突入したということでしょう。老後の備えとはそういうことです。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年5月31日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。