「償い方」の時代的変遷とその「恩恵」 --- 長谷川 良

アゴラ

イスラエル軍は3人の宗教学校の学生殺害事件を受けガザ区のイスラム根本組織「ハマス」に対して空爆を行っている。一方、、ハマス側もパレスチナ人青年の殺人に抗議してミサイルをイスラエル側に打ち込んでいる。イスラエル側は過去、パレスチナの攻撃を受けた場合、その報復に躊躇することはなかった。なぜならば、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」(出エジプト記21章23節から25節)という「モーセの律法」に基づき、報復しなければならないからだ。実際は、イスラエル側は過去、一人のイスラエル人の犠牲に対し、その数倍のパレスチナ人の血を流してきた。ユダヤ人にとって、神の律法を死守することは義務だ。ユダヤ人は選民としての誇りを守り、他民族が選民の血を流したら、その報復を実施することが神の願いに合致する、と信じてきたからだ。


ところで、聖書新旧66巻を読むと、神は、罪人の償い方では時代の推移によって異なった方法を提示していることが分かる。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の一神教の3宗派は「信仰の祖」と呼ばれたアブラハムから派生したきた。そのアブラハムが神の教えを完全に履行しなかった時、神は息子イサクを「供え物にせよ」と命じている。すなわち、鳩を割いて神の前に供えることに失敗したアブラハムは自分の命より大切な息子を神に捧げよと命じられたのだ。ただし、アブラハムは神の命令に完全に服従してイサクを殺そうとした時、神はアブラハムの信仰を「良し」として、その罪を許している。アブラハムの場合、自身が犯した罪(鳩を割かなかったこと)より重い償いを求められたケースだ。

モーセの律法時代は、「目には目を、歯には歯を」の方法で償いを求められた。失ったものと同じ価値で償うやり方だ。イスラエルはその律法時代からの償い方を21世紀の現代まで堅持している。それでは新約時代のイエスの償い方はどうだろうか。イエスは「自分を信じる者は救われる」という。イエスの衣の裾を触った女について、「あなたの信仰があなたを救った」といっている。「信じる」ことで償いが成就される時代だ。そしてイエス以降、「十字架救済論」として確立されていく。

アブラハム時代、モーセの律法時代、そして新約のイエスとそれ以降の時代で、罪の償い方は明らかに異なっているわけだ。換言すれば、重い償いから次第に軽い償い方で罪が許されるようになってきている。聖職者がいう「神の恩寵」といえるわけだ。アブラハムやモーセ時代を経過し、現代は新しい償い方で神に帰る道が開かれているわけだ。

イスラエルが「これにつけ加えてはならない。減らしてはならない」(申命記)といわれてきたモーセの律法を堅く守り、「目には目、歯には歯」を死守し、パレスチナ人へ報復を繰り返すのは、明らかに時代遅れだ。もちろん、イエスを「キリスト」とは考えず、「預言者の一人」に過ぎないと信じるユダヤ人にとって、モーセ時代の律法が全てだ。だから、神が時代の推移に伴い、預言者を送り、イエスを通じて新しい償い方を提示してきたにも拘わらず、旧態依然の償い方、それに基づく報復を行っているのだ。イエスは「右の頬を打たれたら、他の頬をも出しなさい」(マタイによる福音書5章39節)と述べ、報復と復讐を戒めている。

3人のイスラエル人青年と1人のパレスチナ人の青年殺害事件後のイスラエルとパレスチナ側の報復合戦を聞く度に、新しい償い方、許し方を拒否しきた民族の哀れさと悲しみが伝わってくる。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年7月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。