敢えて朝日新聞の木村社長を擁護する --- 山城 良雄

アゴラ

えらい騒ぎやなぁ。一ケ月前の記事だけで、これだけマツリを楽しむんやから、やっぱ日本人は朝日新聞が大好きなんやな。特に、我がアゴラ。トップページの「人気記事」には常に2~3本、朝日がらみが出ている。ほんまに、御苦労はんなこっちゃで。

今回、朝日は何をやったか、70年前に起こった事件を報じた30年前の記事を訂正しただけや。ほんまそれだけ、あとは何ぁ~にもしてへんがな。

訂正記事への反響。批判一色や。特に「謝罪がない」という分かりやすい話を、やり玉にあげるのが最近の流行。「知らないと恥をかく朝日の大問題」ちゅうわけやで。しかし、謝罪って何や。


よく、「御免で済んだら警察はいらん」と言う。言い換えたら、世の中には御免で済まんことが山ほどあるから、警察官とか軍人とか政治家とかの、うっとおしい連中を地球上から追放できんということや。つまり、単なる謝罪は限り無く軽い。

謝罪というのは、あくまで気持ちの問題や。する方とされる方で信頼関係があるか、少なくとも今後つきあっていく意思があってはじめて、謝罪というものは機能する。

一度謝ったら、死ぬまで謝罪させようとする国、どっかにあったな。ああなるのは信頼関係がないからや。そやから、誰かに無理矢理謝らせるのは、たいていの場合、無意味や。もちろん、広義の強制も同様や。

第一、謝罪されたら受け止める度量のある人間以外が、上から目線の他人ごとで、謝罪を求めるのは、かなり下品な行為やがな。大の大人に謝罪を要求して意味があるのは、被害者でも傍観者でもなく、一緒に連帯して謝罪する気のあるやつだけや。

今回の誤報について、謝るとしたら、誰が誰に謝るんやろか。「誰に」の方から考えてみよ。常識的には「読者(当時のか今のかは別として)」やろ。わしも、これは無いとおかしいと感じる。しかし、批判者の大部分は「国民」とか「国家」に謝罪しろと言い出している。

そやけど、もし、朝日新聞が「日本国民のみなさま申し訳ありません」とやったら、それはそれで批判が集中するやろ。「日本国の政治には、我が朝日新聞の記事が大きな影響を及ぼしています」ということが前提になる謝罪やからや。

実際、もっとスケールの大きい誤報を大量にしているはずのTスポーツやOスポーツが、「国民の皆様……」とやったら、ギャグにしかならん。

「謝る側」の選定も難しい。誤報の責任は本質的には記者にある。もちろん、名誉毀損やら損害賠償となると会社が全面に出てくるが、謝罪というような道義の問題になったら、全面に立つべきは記者か、せいぜい、記事をチェックした現場のデスクまでや。

そやから、当の記者(あえて名指しはせんが)が、「欺されて嘘を書きました。ごめんなさい」と言えば、一番キレイに話がつく。今回の場合、どうやら、本人たちにその気は無さそうやな。当時の編集陣・経営陣も同様やろ。

では、今の社長やら編集担当者はどうか。これはハッキリ言うて、これは筋が通らん。なんで誤報をしたやつが黙っていて、苦労して訂正したやつが謝るんや。そやから、木村社長個人をはじめ、今の経営陣やら編集部への批判、というより誹謗中傷・退陣論には、ワシとしては、大きな違和感がある。

誤報を訂正した人間が、エラいめにあうか、ボロクソに言われるのが通例になったら、誰もそんなことせんようになる。朝日だけの問題やない。大メディアが自分らのミスを、今以上に公表しにくくなったら、国益にも世界平和にも、大きな悪影響があるんと違うかな。

今回の訂正で、この問題に関して、政府や国民が自信を持って動けるようになったこと、これは大きい。はじめから誤報なんかせんかったら良かった。といのは正しいが、人間には間違いがある以上、言っても仕方ないことや。問題は、ミスをリカバリーするシステムが機能するかせんかということやろ。この点、木村朝日に対して、もう少し評価をせんとあかんと思うがのう。

話を謝罪に戻す。結局、謝罪をやるとすれば、「朝日新聞社が読者にする」という形しかない。繰り返すがワシも、訂正と同時に謝罪するのが常識やと思う。そやけど、「そう言えば謝罪がないな」という事実を発見し、それを世間に伝える段階が終わったら、深追いは禁物や。さっきも書いたように下品極まりないし、メディアの浄化機能を損なうことになりかねん。

では、どうしたらええか。朝日かてアホやないから(と思いたい)、ここで謝らんかったら、「そんなやつ」やと思われることは覚悟してるはずや。そやから各自で、「そんなやつ」として扱ったらええ。

購読を止めるのもいいし。広告を控えるのもありや。取材を受けたら無視。当然、原稿も断る。今後、多かれ少なかれ、こういう動きが出てくるし、また、それでええと思う。それにしても、なんでそこまでして謝罪をためらうんやろな。

どこの世界にも、妙なプライドのせいで、謝るのが苦手なやつはいる。たいてい、周囲から思いっきり嫌われている。そう、朝日新聞社はそういう奴らの集団なんやろ。採用に問題があるのか、「英才教育」をしておるのか知らんが、はっきり言うて、一緒に時間を過ごしたいタイプの人……ほとんどおらんで。販売関係者の間には、「記者が1人、引っ越してくると、部数が10減る」という伝説まである。

そやけど、ワシはあえてこういうタイプのクソ集団が存在したほうがええと思う。一種の必要悪や。周囲の迷惑よりも事実の追求に興味があり、自分たちの記事の「安全神話」を信じる。友達にはしたくないが、世の中にはいてほしいと思う。言葉の暴力装置やな。

今回の話、誤作動した暴力装置をどう始末するか、という問題なんやろ。前にも書いたが、慰安婦問題自体が存在せんわけでもないし、放っておいてええわけでもない。そやから、朝日批判をするにしても、筋の通らん批判や、うるさいだけの誹謗中傷は、そろそろ止める時期やと思う。そして、木村朝日、ちょっとだけ褒めてやってもええのと違うかな。
 
今日はこれぐらいにしといたるわ。

ときどき、帰ってくるサイエンティスト
山城 良雄