織田信長は「全国統一」をめざしたのか

池田 信夫
織田信長 (ちくま新書)
神田 千里
筑摩書房
★★★★☆




大河ドラマなどで最も愛好される時代は戦国時代であり、織田信長はそれを平定して「天下統一」しようとしたが、明智光秀に暗殺されて挫折したとされる。ここでは信長がモダンな絶対君主で、それを失ったことで日本は統一国家になるのが300年遅れたと想定されている。

しかし最近の研究は、これが国民国家という近代的な概念を遡及した錯覚ではないかと指摘する。信長が「天下布武」(天下に武力を広める)という朱印を使い、「天下人」という言葉を使ったことは事実だが、ここでいう「天下」とは何だろうか。われわれは無意識に「全国」という意味だと思ってしまうが、16世紀に日本という国家はほとんど意識されていなかった。

専門的な文献考証を省いて結果だけいうと、この「天下」は、京都を中心とする畿内のことと考えるのが妥当だ、というのが最近の歴史学の見解である。そうだとすると、信長は統一国家をつくろうとしたのではなく、たかだか近畿地方のローカルな君主をめざしていたことになる。つまりのちの徳川幕府が江戸と「天領」を統治したように、京都を中心とする幕藩体制に似た体制を想定していた可能性がある。

それはある意味では当然だ。同時代のヨーロッパ各国が君主によって国家統一をはかったのは、対外的な戦争に対して戦う指揮系統を統一するためであり、対外的な戦争のなかった日本が武力で全国を統一する必要はなかった。信長も、毛利元就などの大名との間では「和睦を第一とする」とのべている。毛利家が武力で反抗してきたから、制圧したのだ。

これはヨーロッパで17世紀に主権国家ができたのと同じだ。間断なく続く戦争を終わらせるには、中国のように全域を統一する国家がベストだが、ヨーロッパではそれは望みえない。このために主権国家というフィクションができ、その休戦ラインとして国境ができた。日本の各藩は、主権国家の縮図といってもよい。各地方の「家」が軍備も税制も法律も独自にもち、境界を越えた人口移動を許さないしくみは、信長から家康まで連続している。

つまり中国が全域を統合する大統一国家だとすれば、ヨーロッパは主権国家を単位とする中統一国家の連合であり、日本は地域ごとの小統一国家の連合である。大統一国家は政治権力のスパンが大きすぎるため、トップダウンの専制国家になるしかない。中統一国家はトップダウンの君主制とボトムアップの民主制の組み合わせだ。小統一国家の日本はボトムアップしかなく、君主としての天皇は空席である。

こう単純化すると、中国・韓国と日本は対極にあることがわかる。13億人以上の膨大な人口を一つの「華夷秩序」で統一するには、民主政治などというコストの高い制度はとりえない。韓国のような周辺国家は、いずれ中国に飲み込まれるだろう。日本はヨーロッパ型に近いので、その一員になることが賢明な選択だろう。